葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

果たして、私たちは「北朝鮮」の体制に対する適格な批判者たりうるか。

前エントリに関して、私が「朝鮮民主主義人民共和国(以下、DPRKと表記)の体制を絶対批判してはならない」と主張していると思われた方も、 少なからずいらっしゃるかもしれません。

私は、決して「DPRKの体制を絶対批判してはならない」などと主張するつもりはありません。しかしながら、前回の拙稿には言葉足らずで誤解を招く点があったかもしれません。ですので、そのあたりのことに関して本稿で若干補足したいと思います。

実際、「『北朝鮮』を悪魔視すること」と「DPRKの体制を批判すること」の区別は難しいものがあると思います。それゆえ、「『北朝鮮』を悪魔視するな」と言うと、「『北朝鮮』を批判するなと言うのか」といった反論があるのも、もちろん分かります。

しかしながら、日本国民はDPRKの体制を批判するに際し、はたしてDPRKを日本と対等な存在として見ているでしょうか。たとえば、「北朝鮮」を 「何をしでかすか分からない野蛮国家だ」などというように、どこか蔑視してしまってはいませんでしょうか。DPRKの体制を批判するに際し、どこか「北朝鮮」を揶揄せずにいられなかったりはしないでしょうか。そのような批判は、たとえ朝鮮の人民の解放を願うものであったとしても、残念ながら真に朝鮮の人民の解放に資するものとはならないでしょう。

また、安倍政権を批判するに際し、ことさらに「北朝鮮」と安倍政権を重ね合わせることは、「安倍政権」を「日本」から"切断処理"するものであるという点で、ある種の「排外主義」的な態度といえるのではないでしょうか。「安倍政権」の問題は、紛れもなく「日本」の内なる問題です。その点から目を背けて安倍政権を批判したところで、「アベ政治」を終わらせることなど決してできないでしょう。

さらに、もし日本国民が安倍政権の「被害者」たる側面をもっている(もっとも、日本国民の多数派には安倍政権を生み出した「責任」はあるでしょうから、「被害者」と言ってしまうことに私はいささか戸惑いを覚えますが……)と言うのであれば、その点ではたしかに金政権の「被害者」たる朝鮮の人民と共通するかもしれません。ですが、やはり日本国民が所属する日本という国が、朝鮮の人民にとっては「加害者」であり(「拉致問題」が日本の加害者性を消し去ることは決してありません。)「抑圧者」であったということを、決して忘れてはならないでしょう(現状はともかく、本来は朝鮮に「南」も「北」もありません。)。その点を看過し、両者の"溝"を埋めることなく安易に「連帯」を主張することはできないと私は思います。

もっとも、「DPRKを対等な存在として見ろというのに、他方で日本と朝鮮が非対称な関係であることを看過してはならないというのは、矛盾ではないか」と思われるかもしれません。ですが、「日本と朝鮮が『抑圧者と被抑圧者』であった」という非対称な関係をまずはしっかりと見つめるということは、両者の"溝"を埋め「対等な関係性」を回復するためにも必要なことであり、たとえ矛盾であったとしても「対等な関係性」を維持するという「DPRKを対等な存在として見る」ということと敵対する矛盾ではないと、私は考えます。

つまるところ、日本社会(国民)によるDPRKの体制に対する批判を正当ならしめるためにも、別の言い方をすれば日本社会(国民)がDPRKの体制に対する適格な批判者たりうるためにも、何よりもまずは日本社会(国民)が、近代から現代に至るまで綿々と続く「コリア蔑視観」を克服し、かつ排外主義的な民族差別を克服しなければならないと、私は思います。そうでなければ、いくら「『北朝鮮』を悪魔視するつもりはない」と言ったところで、説得力はないでしょう。

「アベ政治を許さない」だけでは、「アベ政治」は終わらない。

初めにお断りしておきますが、私の立ち位置は「安倍政権批判者」です。ですので、「打倒安倍政権」を訴える人々の姿勢に対して批判めいたことを言うと「味方を後ろから撃つような真似はやめろ」と叱られるかもしれませんが、それでもあえて言いたいと思います。

たしかに、「アベ政治を許さない」ということには、私も賛成です。しかし、私はどうしても「アベ政治を許さない」と訴える安倍政権批判者の一部の人たちの態度に、違和感を覚えます。それが顕著に感じられるのが、「“北朝鮮”(朝鮮民主主義人民共和国)問題」と、「“従軍慰安婦”(日本軍性奴隷)問題」です。

まず、「“北朝鮮”(朝鮮民主主義人民共和国)問題」について言えば、たしかに朝鮮民主主義人民共和国(以下、DPRKと表記)の金正恩政権に様々な問題があることは、私も否定はしません。ですが、だからといって、その問題を解決するためにアメリカが武力行使することが、はたして許されるでしょうか。もしあなたが民主主義者であるならば、そのような解決方法は許すべきではありません。たとえ「金正恩の時代」が終わるとしても、それを終わらせることができるのは、アメリカではないのはもちろんのこと、韓国でも日本でも国連でもありません。それができるのは、朝鮮の人民だけです。

しかしながら、日本では「北朝鮮」を悪魔視する人が後を絶ちません。政府、マスメディアから国民に至るまで、文字通り「国ぐるみ」で「北朝鮮」を悪魔視しています。残念ながら「アベ政治を許さない」人の中にも、「北朝鮮」を悪魔視し、わざわざ「北朝鮮」と安倍政権を重ね合わせて安倍政権を批判する人が見受けられます。もちろん、DPRKの政権を批判するなとは言いません(もっとも、日本政府や日本国民にDPRKの政権を批判する資格があるのか、いささか疑問ではありますが)。ですが、「北朝鮮」を悪魔視するその態度が、朝鮮学校に対する差別的措置といった「アベ政治」の在日コリアン差別政策を増長させ、朝鮮学校の児童や学生を標的としたヘイトクライムを誘発し、あるいは「アベ政治」の戦争危機煽動を助長しているということを、どうか忘れないでください。

つぎに、「“従軍慰安婦”(日本軍性奴隷)問題」について言えば、どうやら「アベ政治を許さない」人の中には、「アベ政治」と同様に「平和の少女像」(日本政府とそれに追随するマスメディアは「慰安婦少女像」と呼称していますが)を許せない人が、残念ながらしばしば見受けられます。朝日新聞をはじめとする、いわゆる「リベラル紙」も、ことに平和の少女像に関しては紙面から敵意を滲ませています。もしかすると彼らは、安倍政権やその支持者たちと同様に平和の少女像を「反日の象徴」だと捉えているのかもしれませんが、しかしそれは平和の少女像を見誤るものです。つまり、思うに平和の少女像は、「女性に対する抑圧的かつ家父長的な家族国家イデオロギー」に対する抵抗を象徴するものであり、「女性に対する抑圧的かつ家父長的な家族国家イデオロギー」こそ、まさしく「アベ政治」が理想とする「美しい国」の中核をなすものであるといえます。そうだとすれば、平和の少女像はまさに「アベ政治を許さない」ことを象徴するものだといえるのではないでしょうか。

そもそも「反日」などという概念にとらわれること自体、韓国とその市民を対等な存在として見ていませんが、そのような「コリア蔑視観」もまた、「アベ政治」が「取り戻したい日本」を支えてきたものであるといえます。しかるに、「アベ政治を許さない」と訴える人が「反日」などという言葉を臆面もなく口にしているとすれば、厳しいことを言わせてもらえば、その人の「アベ政治を許さない」という訴えは欺瞞でしかありません。

安倍政権批判者の中には、最大野党を支持する人も少なくないでしょう。その最大野党の政治家にも、「北朝鮮」を悪魔視し、「平和の少女像」を敵視する人が少なからず見受けられます。そのような「現状」を見るにつけ、私は「安倍政権が退陣したところで、結局のところ同様の帝国主義的な政権が生まれるだけではないだろうか」と思わずにいられません。

冒頭で述べたように、私も「安倍政権批判者」ですから、「アベ政治」を終わらせることに異論はありません。ですが、今のままでは決して「アベ政治」を終わらせることはできないでしょう。「アベ政治を許さない」をお題目とするのではなく、「アベ政治」の根底にあるものを把握し、それを克服することこそが、本当の意味で「アベ政治」を終わらせるために必要なことであると、私は思います。

「反日/親日」というモノサシは、もう捨てよう。

日本では、相変わらず「反日親日二分法思考」が蔓延しています。それは多くの場合、韓国や中国をバッシングするために用いられます(「親日」でさえも、「◯◯国は親日だ。それに比べて、韓国や中国は……」というように。)。ですが、時として「韓国(人)だって全てが反日ではない。韓国(人)にだって、親日な部分(人)はある(いる)」というように、「反日バッシング」に対する反論として用いられることがあります。

おそらく、そのような反論に共感を覚える人は少なくないでしょう。しかし、私はどうしてもそのような反論には共感できません。

いったいどうして、「反日親日」というモノサシを捨てようとしないのでしょうか。そもそも、どうして「日本」に反抗してはならないのでしょうか。どうして「日本」を無条件に好きでいなければならないのでしょうか。そのような「日本」とは、いったい何様のつもりなのでしょうか。

つまり、「反日親日二分法思考」というのは、「他者への想像力」に欠けた、どこまでも「自己中心的」なものだということです。もっとも、「日本人なのだから、日本本位に考えるのは当然だ」と言う人がいるかもしれません。ですが、そのような考え方こそ、まさに「他者への想像力」に欠けた、どこまでも「自己中心的」なものではないでしょうか。そのような考え方をする人は誤解しているのかもしれませんが、「他者への想像力を働かせる」ということは、なにも「他者に阿る」ということではありません。「他者への想像力を働かせる」ということをそのように誤解するというのも、ある意味では「反日親日二分法思考」の弊害なのかもしれません。

結局のところ、「反日親日二分法思考」に囚われている人は、「他者」を自分より下に見ているということです。残念ながら、「差別主義者」のみならず、反差別や民族の友好を訴える人のなかにも「反日親日二分法思考」にとらわれている人がしばしば見受けられます。しかしそれでは、「真の友好関係」など築くことは到底できないでしょう。たとえ反差別や民族の友好を訴えるためであっても、「〇〇人のうち反日はごく一部であって、多くの人は親日家だ」などということは、少なくとも「日本人」の側から言うべきではないと思います。

真に差別の解消や民族の友好関係を実現するためにも、反差別や民族の友好を訴える人こそ「反日親日」というモノサシを捨てて欲しいと、私は切に思います。

もちろん、「反日親日」というモノサシを捨てることは、真に差別の解消や民族の友好関係を実現するためだけではありません。それはなによりも私たち自身にとって、「共同の幻想」に囚われることなく「自由な人間」として生きるために必要なことなのではないでしょうか。

わたしを殺さないでください

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、「人を殺すのは悪いことだからだ」と答えたとして、既存の価値観を否定することが「価値中立的」であるとする今の日本では、もはやそのような答えは有効ではないようです。

ならば私は反問したいと思います。「なぜ人は殺されなければならないのでしょうか?殺されたくない人が、なぜ殺されなければならないのでしょうか?」

そのような私の反問に対して、もしかすると「殺されるだけの“理由”がある人もいるだろう」と答える人がいるかもしれません。あるいは、「人が人を殺すには、なんらかの“理由”があるはずだ。そうであるならば、人を殺す人の気持ちも考える必要があるのではないだろうか」と答える人がいるかもしれません。ですが、殺されるだけの“理由”は果たして本当に「理由」なのでしょうか。つまり、そのような“理由”があるからといって、「人を殺してもよい」ということになるのでしょうか。そのような“理由”は、「人を殺してもよい」という結論ありきで後から取ってつけたものにすぎないのではないでしょうか。もちろん、「人を殺す人の気持ち」を考えるのは、それこそ自由です。しかし、「人を殺す人の気持ち」の気持ちが如何なるものであろうと、それは殺される人の与り知らぬことでしょう。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、残念ながら私は確かな答えを持ち合わせていません。ですが、そんな私でも、確かに言えることがひとつあります。それは、人には「殺されない権利」があるということです。そしてそれは、誰しも人間として生まれた以上、当然に有するものです。なぜなら、この世界に生まれ、この世界で生きることを引き受けた「人間」だからです。

もしもあなたが私を殺さなければ誰かに殺されるとしても、私があなたに殺されなければならない理由はありません。同様に、あなたがその誰かに殺されなければならない理由もありません。なぜなら、あなたも私も、「殺されない権利」があるのですから(もっとも、あなたが私を殺したとして、そのことを「国民」に非難され「国民」の委託を受けた「国家」によって罰せられるかどうかは、また別の話です。)。

冒頭でも触れましたが、既存の価値観を否定することが「価値中立的」であるとする今の日本では、「人を殺すのは悪いことだ」というテーゼに対して懐疑的な人が少なくないようです。それならば、大人たちが子供たちに「人を殺すことは悪いことだ」と教えなくても別に構いません。ですが、「人は誰しも人間として生まれた以上、殺されない権利を当然に有する」ということだけは、やはり子供たちに伝えなければならないと、私は思います。

「韓流」は、はたして「歴史を忘却させるためのコンテンツ」でしかないのだろうか。

(耕論)多難な日韓関係 小倉和夫さん、徐永娥さん、古家正亨さん

朝日新聞デジタル http://www.asahi.com/articles/DA3S12832218.html

 

朝日新聞2017年3月9日付朝刊オピニオン面に掲載された韓国大衆文化ジャーナリスト・古家正亨氏のオピニオン記事を好意的に受け止める人は、どうやら少なくないようです。

それはおそらく、この記事が「『日韓』友好」を謳ったものだからでしょう。

ですが、このような「植民地主義」に満ちたまなざしで書かれた(私は、このオピニオン記事の聞き手である朝日新聞論説委員・箱田哲也氏によるコラムの「自分は韓国人でなくて良かったと思う」という一節を、忘れることができません。)オピニオン記事を好意的に受け止めることは、私にはどうしてもできません。

古家氏の意見を要約すれば、それは「韓国の若者は『親日』であるのに、日本の在外公館の前に少女像を作るような『反日』韓国人のおかげで、日本人が韓国に悪い印象を抱く」というものです。

古家氏はどうして、そのような「日本」本位なまなざしでしか「『日韓』関係」を眺めることができないのでしょうか(「古家氏が『日本人』なのだから、それは当然のことだ」と言う人がいるかもしれませんが、「『日本人』なのだから当然」というところで思考を止めてしまって、はたして良いものなのでしょうか。)。

古家氏の、「歴史問題をかざして日韓〔ママ〕関係をあえてややこしくする大人がいるが、せっかく若い世代が新しい関係性を作ろうとしているのだから、大人はそれを邪魔するべきではない」という旨の主張にも、私は疑問を禁じえません。「日本による植民地支配の歴史」から目を背けたまま構築されるような「『日韓』関係」に、いったいどれほどの意義があるのでしょうか。思うに、そのようにして築かれる(古家氏の言う)「良質な『日韓』関係」なるものは、所詮は「日本にとって都合の良い『日韓』関係」でしかありません。

もっとも、「日本による植民地支配の歴史」から目を背けていたい人にとっては、古家氏の主張は「至極正論」なのかもしれません。ですが、古家氏の主張は、「韓流」を「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」とするものでしかありません。はたして、本当に「韓流」は「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」でしかないのでしょうか。

古家氏は、「昨今の日韓〔ママ〕関係の悪化によって、日本の韓流ファンが踏み絵の前に立たされている」という趣旨のことを言います。たしかに、「外で堂々と韓流に関する話ができなくなっている」昨今の日本の状況については、私も憤りを覚えます。しかし、だからといって「日本人」が「韓流」を心地良く消費できさえすれば、それで良いのでしょうか。さらにいえば、「日本人」が「韓流」を心地良く消費するために「韓流」が「『日本による植民地支配の歴史』を忘却させるためのコンテンツ」として利用されることで、「人間の尊厳」を踏みにじられ続ける人がいても構わないのでしょうか。

結局のところ、古家氏の言う「良質な『日韓』関係」すなわち「日本による植民地支配の歴史」から目を背けたまま構築される「『日韓』関係」は、(『日韓』基本条約が締結された)「日本の内にある、1965年以降の新たな植民地支配の関係」でしかありません。私がなによりも残念に思うのは、(冒頭でも触れましたが)そのような関係を「良質な『日韓』関係」だとする古家氏の言説に賛意を示す「韓国に対して好意的な人」が少なからず見受けられる、ということです。このような状況が続くかぎり、韓流スターやK‐POPアーティストは「反日親日フィルター」によって選別され、言葉は悪いですが「日本人」を癒す「従順なペット」でいることを強いられ続けるでしょう。例えば、韓国のある俳優さんが、ある韓国のテレビ番組で日本軍性奴隷被害者を後援するTシャツを着ていたという、つまり戦争犯罪の被害者支援を表明したというそれだけの理由で、日本のインターネット上で「反日だ」と非難されるように……。

 

「魔術〈エロティシズム〉使い」に大切なこと

エロティックな創作表現を擁護するためにしばしば援用される言説に、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というものがあります。

たしかに、エロティックな創作表現を現実の性犯罪と安易に結びつけるような(エロティックな表現に対する)批判的言説には、私も憤りを覚えます。

しかし、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というのも、それは違うと思います。つまり、たとえフィクションの影響によって「現実」において行動を起こさないにしても、フィクションが「現実」を生きる私たちの価値観の形成に、良くも悪くも影響を及ぼすことは、やはり否定できないと思うのです。

エロティックな創作表現と性犯罪の関係について言えば、たとえエロティックな創作表現の影響によって現実に性犯罪を実行しなかったとしても、エロティックな創作表現の影響によって性犯罪を許容するような「価値観」を持ってしまう危険は十分にある、ということです。

もちろん、性犯罪を許容するような「価値観」を持つことのみを理由として刑罰を科されるようなことがあってはなりません。また、エロティックな創作表現が性犯罪を許容するような「価値観」の形成に寄与する危険があるからといって、それを公権力をもって安易に規制すべきではありません。しかし、そうはいっても、やはりエロティックな創作表現が内包する危険から目を背けてはならないのであり、それはエロティックな創作表現を愛好する者の「責任」であると思います。

そもそも、「現実」を生きる私たちの価値観の形成に影響を及ぼさないようなフィクションに、どれほどの意味があるでしょうか。思うに、エロティックな創作表現は「人間の生」について考える上で十分に意義のあるものです(なお、「十分に意義のあるもの」か否かを判断するために「高尚なアートか、それとも低俗なポルノグラフィか」などという“曖昧な”物差しを用いるつもりは毛頭ありません。)。さらにいえば、エロティックな創作表現は、生き辛いこの世界を生きるための、いわば「魔術」です。ただ、このエロティシズムという「魔術」は、時として私たちを呑みこみ、人間疎外を惹き起こしてしまう危険をはらむものです。そのような危険な「魔術」を使う者だからこそ、エロティックな創作表現を愛好する私たちは、「魔術」の取り扱いに慎重でなければなりません。

私は、エロティックな創作表現を愛好する者だからこそ、エロティシズムという魔力の危険から目を背けずにいたいと思います。

共謀罪を創設しないこと、それこそが「歯止め」である。

東京新聞:「共謀罪」拡大解釈の懸念 準備行為、条文に「その他」:社会(TOKYO Web) http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201702/CK2017022202000131.html

 

安倍政権が創設を目論む共謀罪に関して、「共謀罪を創設するにしても、一定の歯止めが必要だ」という言説があります。このような言説は、「一定の歯止めが必要だ」としている点で、一見至極穏当なもののように思えるかもしれません。しかし、私はそのような言説に、どうしても違和感を覚えます。それというのも、そのような言説は、共謀罪の問題の本質をはぐらかすものであるからです。

すなわち、思うに共謀罪は、犯罪構成要件が過度に広汎かつ不明確であるという点で、その創設を認めることは、人権保障のための「歯止め」である「構成要件の人権保障機能」という刑法理論を歪曲するものです。つまり、共謀罪の創設それ自体が人権保障のための「歯止め」を外すものである以上、そのようなものに「一定の歯止めが必要だ」などと言ったところで、それはまやかしでしかないということです。

そもそも、共謀罪創設の目的が「テロ対策」だというのも疑わしいですが(もっとも、市民によるデモを「テロ」だなどと言った自民党の政治家がいましたが……)、百歩譲って安倍政権が主張する「テロ対策の必要性」があるとしましょう。ですが、その場合でも必要なのはあくまでも「テロ対策」であって、「共謀罪」ではありません。つまり、「共謀罪」は「目的」ではなく「手段」にすぎないのであって、そうだとすれば「共謀罪の創設が必要であるとしても、一定の歯止めが必要だ」などと言うのは、目的と手段を履き違えていると言わざるをえません。

繰り返しますが、共謀罪の創設それ自体が、人権保障のための「歯止め」を外すものです。ゆえに、共謀罪を創設しないこと、それこそが必要な「歯止め」です。