葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

何のために「現実」を見るのか

理念を掲げて現状の変革を訴える人に対して、「現実を見ろ」と言う人がいます。もしかすると、「現実を見ろ」と言う人に同調し、理念を掲げて現状の変革を訴える人のことを夢想家だと嘲笑する人は少なくないかもしれません。しかし、私はその「現実を見ろ」という意見には同調できません。なぜなら、その「現実を見ろ」という意見は、現実を見るだけにとどまらず、現状を肯定することまでをも強いるものだからです。

そもそも、理念を掲げて現状の変革を訴える人に対して「現実を見ろ」と言うのは、不当な言いがかりです。理念を掲げて現状の変革を訴える人も、「現実」を見ています。ただ、彼は現状に迎合するためではなく、現状を変えるために「現実」を見るのです。

現状に迎合し、それを他者にも強いる人は、現状を変えようとする人の態度を「非科学的だ」と批判します。たしかに、科学は客観的法則性を認識するものです。しかし、客観的法則性を認識することは、「科学の成果」を用いて現状を変革しようとすることを排斥するものでありません。それどころか、むしろ「科学の成果」を現状の変革に用いることは、客観的法則性の認識の発展にとって重要であるといえます。そして、変革せんとする「現状」は、神によって作られたものなどではなく、権力を握った人間によって作られたものです。人間によって作られたものだから、人間によって変えることができるのです。しかるに、現状を変えることを許さない態度こそ、むしろ形而上学的な非科学的態度だといえるのではないでしょうか。

“哲学者たちは世界をさまざまに〈解釈〉したにすぎない。大切なことはしかしそれを〈変える〉ことである。”―カール・マルクス

日本軍性奴隷問題は、外交問題ではない。

(社説)日韓合意 順守こそ賢明な外交だ:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/DA3S13293399.html

 

朝日新聞のこの社説は、「ひどい」の一言に尽きます。朝日新聞は、韓国に対してどうしてそのような傲岸不遜な態度をとることができるのでしょうか。否、むしろ相手が韓国だからこそ、そのような傲慢な態度をとることができるのでしょう。「文氏は……理性的な外交指針を築く覚悟が求められている」などと、他者を「非理性的」であると規定するのは、まさしく植民地主義者の手口です。朝日新聞は、「外交交渉は、片方の言い分だけがとおることはない」などと「正論」を振りかざすで、さも自らは「理性的」だと言いたげですが、それならば、今回の韓国の調査チームの調査によって明るみに出た「裏合意」*1が、いかに日本の言い分を韓国に押し付けたものであるかも容易に分かるはずですが……。

もっとも、「核となる精神は、元慰安婦らの名誉と尊厳を回復することにある」というのは、たしかにその通りです。しかるに、どうしてそれに続けて「文政権は合意の順守を表明し……」などと言えるのでしょうか。思うに、それは朝日新聞が、「日韓合意」の問題性を正しく理解していないからです。このことは、当該社説の翌日に掲載された箱田哲也論説委員(署名はありませんが、おそらく当該社説を執筆したのも箱田氏でしょう)の「社説余滴」で、「(文政権は)前政権がやったことはすべて悪だと短絡的に決めつける」などと述べている*2ことからも推察することができます。「日韓合意」は、「前政権(朴槿恵政権)がやったこと」だから問題視されているのではありません。箱田氏は、どうしてそのような短絡的な捉え方しかできないのでしょうか。朝日新聞は、文政権に「合意の意義を尊重する賢明な判断を求め」る前に、自らが日本軍性奴隷問題の本質を理解すべきです。日本軍性奴隷問題の本質を理解していれば、「順守こそ賢明な外交だ」などとは恥ずかしくて言えないはずです。

日本軍性奴隷問題の本質を理解すべきなのは、朝日新聞だけではありません。他のマスメディアも、日本政府も、日本国民も同様です。そもそも、政府も、マスメディアも、国民も、どうして日本軍性奴隷問題が「〈日本〉対〈韓国〉」の問題ではなく「〈国家〉対〈被害者(と市民)〉」の問題だ、というのが分からないのでしょうか。日本軍性奴隷問題は、決して外交問題などではありません。他ならぬ朝日新聞自身が指摘しているように、人間の名誉と尊厳にかかる問題です。「日韓合意」が破棄されるとしたら、それは文大統領の外交指針が問題なのではありません。被害者の名誉と尊厳の回復に資するどころか、それを妨げる「日韓合意」そのものが問題なのです。このことは、国連の拷問禁止委員会という「第三者(言うまでもなく、第三者性に関して、国連拷問禁止委が国連においてどのような位置づけであるかは、問題ではありません。)」が「日韓合意」の見直しを勧告した*3ことからも、容易に分かるはずです。

結局のところ、日本政府、マスメディア、そして国民にとって、日本軍性奴隷問題は「真に解決しなければならないもの」ではなく、「さっさと片付けてしまいたい厄介事」でしかないのでしょう。それゆえ、平和の少女像を「日本に対する嫌がらせ」だなどと誤解するのです。

日本軍性奴隷問題は、日本国民にとって「他人事」ではありません。日本国民には、日本によるかつての植民地支配や戦時性暴力について、果たすべき「責任」があります。誤解しないでください。それは、個々の国民が被害者に対して直接謝罪するなどということではありません。植民地支配や戦時性暴力を否定する価値観を共有すること、それこそが今を生きる日本国民の果たすべき「責任」です。そして、それは他でもない日本国民自身が、「尊厳ある人間」として生きるために必要なことなのです。

*1:[日本•国際]「慰安婦」“裏合意”なかったと言っていたのに・・・嘘だった http://japan.hani.co.kr/arti/international/29369.html

*2:(社説余滴)韓国が断つべき本当の悪弊 箱田哲也:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/DA3S13294834.html

*3:国連拷問禁止委、日韓合意の見直し勧告 慰安婦問題で:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASK5F1SKYK5FUHBI001.html

「日本スゴイ番組」の“効能”

昨今の日本では、欧米人を日本に招いて(アジア人が招かれることは、皆無といってよい)日本の技術や文化を褒めさせるテレビ番組が、多く見受けられます。いわゆる「日本スゴイ番組」といわれるものです。そのようなテレビ番組の趣旨は、一般的には「日本の素晴らしさを再発見する」もの、あるいは「欧米人に日本の技術や文化を褒められることで、日本人が失った自信を取り戻す」ものであると、しばしば説明されます。

「『欧米人に日本の技術や文化を褒められることで、日本人が失った自信を取り戻す』というのは、排外主義的なナショナリズムの高揚に比べれば『無邪気なナショナリズムの称揚』であって、謙虚さという『日本人の美徳』(「謙虚さという『日本人の美徳』」の真否はさておき)には反するものの、これといった害はないのだから目くじら立てなくてもいいではないか」と思う人も少なくないでしょう。たしかに、「日本スゴイ」の裏返しとして他民族を蔑視したりするのでなければ、これといった害はないかもしれません。しかし、昨今の「日本スゴイ番組」は、本当に「無邪気なナショナリズムの称揚」だけにとどまるものでしょうか。

思うに、「日本スゴイ」番組の“効能”は、「欧米人に日本の技術や文化を褒められることで、日本人が失った自信を取り戻す」だけにとどまるものではありません。「日本人」が「欧米人に褒められることで自信を取り戻す」というのも、「西洋コンプレックス」のゆえです。「日本スゴイ」番組は、そんな「西洋コンプレックス」を抱えた「日本人」のルサンチマンを満たします。それというのも、“弱者”である「日本人」が、“強者”である「欧米人」(しかも、その「欧米人」は、“弱者”である「日本人」の技術や文化に憧れている)に「日本」の素晴らしさを教えることで、「日本人」は「欧米人」に対して優位に立つことができるからです。そうして、「日本スゴイ」番組の視聴者は、日本の技術や文化が「欧米人」に褒められるのを見ることのみならず、「日本人」が「欧米人」に日本の技術や文化の素晴らしさを教える姿を見ることでも快感を得るのでしょう。

このように、昨今の「日本スゴイ番組」は、決して「無毒」なものではなく、ルサンチマンという「毒」を多分に含んだものです。その「毒」は、他でもない「日本人」自身を蝕みます。そのような「毒」に蝕まれた「日本人」の未来は、はたして明るいでしょうか。

差別に「寛容」であることは、「寛容の精神」を殺す。

「寛容の精神を貫くのであれば、差別にも寛容であるべきだ」と言う人がいます。もしかすると、「その通りだ」と思う人も少なくないかもしれません。ですが、本当に「寛容の精神を貫くのであれば、差別にも寛容であるべき」なのでしょうか。

たしかに、「差別を許さない」というのは差別に「不寛容」なわけですから、「寛容の精神」を貫くのであれば、差別にも寛容であるべきようにも思えます。しかし、そのように思う人は、ひとつ大事なことを見落としています。それは、差別に寛容であることは、差別によって踏みにじられる人の尊厳には不寛容である、ということです。

なぜ、そのような過ちを犯すのか。それは、「寛容」という言葉を表面的にしか捉えていないからです。表面的にしか捉えていないから、「寛容」を「無頓着」と誤解するのです。

思うに、「寛容であること」が求められるのは、「すべて人間は、個人として尊重される」からです。しかるに、個人の尊厳を踏みにじるものである差別に寛容であることは「寛容であること」が求められる趣旨に悖るものであって、いわば「寛容の精神」を殺すようなものです。はたして「寛容の精神」は、自分を殺すものである「差別」を許容するでしょうか。

このように「寛容」を論ずるにあたっては、「寛容であること」が求められる趣旨にさかのぼって考えることが必要です。そうして考えてみると、「寛容の精神を貫くのであれば、差別にも寛容であるべきだ」というのは、結局のところ差別を正当化するための詭弁でしかないでしょう。

「寛容の精神」を真に貫くのであれば、差別を決して許してはならないのです。

 

「軍艦島」の片隅に

政府、軍艦島での強制労働なし 徴用工巡り韓国の反発必至
共同通信 https://this.kiji.is/311548453396726881

 

もしかすると、この記事を読んだ多くの日本国民は「元“島民”が『過酷な強制労働の実態はなかった』と証言しているのだから、軍艦島での強制労働はなかったのだろう」と思うかもしれません。ですが、少し考えてみてください。

この記事を読む限りでは定かではありませんが、おそらく証言をした「元島民」は「日本人」でしょう(「島民」という表現も、あたかも証言が客観的で中立的であるとの印象を読者に与えるものです。)。そうして、この「元島民」の方がたとえ「善い日本人」であったとしても、当時の日本と朝鮮の関係の下では、「抑圧者」にほかなりません。しかるに、「抑圧者」の証言だけで、どうして「過酷な強制労働の実態はなかった」ことが“真実”となるのでしょうか。

これに対して、「軍艦島での強制労働はなかった」と主張する人たちは、「それならば、朝鮮人労働者の証言だけで過酷な強制労働の実態があったことにはならないだろう」というかもしれません。たしかに、それはその通りでしょう。しかし、そうであるならば、元島民の証言だけで、過酷な強制労働の実態はなかったことにもならないはずです。

当時の軍艦島の繁栄を理由に、「島は決して地獄島と表現されるような状況ではなかった」と主張する人もいます。軍艦島のある“平和都市”長崎市の田上市長も、その一人です*1。たしかに、「繁栄」も、軍艦島の「一つの事実」でしょう。しかし、「日本人」である“島民”にとって「地獄島」ではなかったからといって、当然に朝鮮人労働者や中国人労働者にとっても「地獄島ではなかった」と言うことはできません。それに、そもそも軍艦島の「繁栄」は、いったい何の上に成り立っていたのでしょうか。

冒頭に掲げた共同通信の記事は、「韓国の反発は必至で、歴史認識を巡る対立が強まり、緊迫化する北朝鮮情勢への対応や早期開催を目指す日中韓首脳会談の日程調整に影響が出る可能性がある」などと、まるで韓国が厄介事を引き起こすと言わんばかりですが、これは「論点ずらし」にほかなりません。問われるべきなのは、歴史的事実を隠蔽して忘却させることに腐心する、日本政府の態度です。いったいマスメディアは、いつまで日本政府による歴史改竄に加担し続けるのでしょうか。

かつての日本による侵略も植民地支配も、疑いを差し挟む余地のない「歴史的事実」です(もっとも、歴史改竄主義者はそれさえも否定するのでしょうが。)。そうである以上、「日本国民」は、何よりもまず、被害者の「声」を真摯に聞くべきです。どんなに耳を塞いだとしても、「歴史的事実」がなかったことには決してならないのですから。

 

[増補改訂版]軍艦島に耳を澄ませば -端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記憶

[増補改訂版]軍艦島に耳を澄ませば -端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記憶

 

 

 

 

私の친구(友)であるピンデトックは、マッコリの最良の친구である。

「韓国の酒」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、おそらくマッコリ(막걸리)だろうと思います。

そして、日本では、マッコリはホルモン(モツ)をつまみながら飲まれることが多いだろうと思います。

事実、マッコリとホルモンは相性抜群です。

しかし、私は韓国でモツをつまみに一杯やるときは、マッコリではなくソジュ(焼酎)を飲みます。それというのも、韓国にはマッコリの「最良の友」がいるからです。

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マッコリの「最良の友」――その名は、ピンデトック(빈대떡)。このピンデトック、見た目は日本でもおなじみのチヂミ(韓国では、「ジョン」という呼び名が一般的です。)とよく似ていますが、チヂミとは違い、緑豆を挽いた粉が生地に使われます。食感も、私の貧相な語彙で表現すれば、チヂミが「カリカリもちもち」であるのに対して、ピンデトックは「カリカリふわふわ」といった感じです。

なぜピンデトックがマッコリの「最良の友」なのか。思うに、ピンデトックは豚脂を使って焼かれるのですが、程よい酸味のある生マッコリ(この「生」というのは、とても重要なことです。)で口の中の油を洗い流す爽快感、というのもあるでしょう。しかし、それはホルモンも同じでしょうから、おそらくそれだけではないはずです。

ピンデトックがマッコリの「最良の友」なのは、やはり私のような韓国の酒場を放浪する左党にとって、マッコリも、ピンデトックも、どちらもいつでも肩肘張らず気軽に付き合えるチング(友)だからなのだと思います。

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韓国の左党の間では、「雨が降るとマッコリを飲みながらピンデトックが食べたくなる」という言い伝えがあるそうです。そんなロマンティックな(?)エピソードもあるチングたちと韓国の酒場で過ごす時間は、私にとってささやかながら贅沢な至福の時間です。

 

ヘイトスピーチを肯定するための詭弁は、もうやめよう。

「私はヘイトスピーチには反対だ。だが、ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる。だから、表現の自由を守るためにも、ヘイトスピーチの自由を認めるべきである」と言う人がいます。もしかすると、このような言説を「正論」だと思う人も少なくないかもしれません。しかし、それはヘイトスピーチを肯定するための詭弁でしかありません。

すなわち、①「ヘイトスピーチは許されるか(ヘイトスピーチの自由はあるか)」という問題と、②「ヘイトスピーチが許されないとして、その許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」という問題は、それぞれ別個のものです。しかるに、①と②の問題を一緒くたにして、②の問題において公権力の恣意性の働くおそれがあるから、ヘイトスピーチを許すべきである(ヘイトスピーチの自由はある)とするのは、つまるところヘイトスピーチを肯定するための詭弁であると言わざるを得ません。

また、「ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる」というのも誤解です。つまり、「許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」は、民主的手続によって成立する法律によって決められます。そして、人権保障の見地から、法律には明確性が求められます。もし、法律が恣意的な公権力の行使を許すような(それとともに、表現の萎縮効果をもたらすような)不明確なものであれば、その法律は憲法に違反し無効です。②における議論は、まさしく恣意的な公権力の行使を許さないための議論なのです。このように、そもそも「許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めること」を許すような法律を制定することは憲法違反であって許されないのですから、「ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる」というのは、誤解なのです。もっとも、議会制民主主義を否定し、「許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」は民主的手続によって成立する法律によっても決めることはできない、と言うのであれば、仕方がありませんが……。

そもそも、どうして「ヘイトスピーチは許されるか(ヘイトスピーチの自由はあるか)」という議論で、ヘイトスピーチが公権力によって規制される段階の話を持ち出して、結論的にヘイトスピーチを肯定するのでしょうか。「ヘイトスピーチを許さない」のであれば、なによりもまずは私たち自身が、私たちが許さないヘイトスピーチがどのようなものであるかを考えるべきです。それこそが、「自由」ということではないでしょうか。