葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「広島原爆の日」に考えたこと

島原爆の日:首相「核ない世界と恒久平和に力尽くす」
毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20170806/k00/00m/040/143000c

 

平和祈念式典のあいさつで安倍首相が述べた「このような惨禍が二度と繰り返されてはならない」という言葉に、私はどこか違和感を覚えます。

お断りしておきますが、それは決して、私が安倍政権に批判的だからではありません。そのような言葉を述べたのが安倍首相ではなく、例えば社民党の党首でも、日本共産党の委員長でも、私は違和感を覚えるでしょう。

いったいなぜ、私は「このような惨禍が二度と繰り返されてはならない」という言葉に違和感を覚えるのでしょうか。思うに、それはその言葉が無責任で主体性に欠けるものだからです。

たしかに、広島がアメリカの原爆投下によって人類史上未曽有の被害を受けたのは紛れもない事実です。しかし、原爆投下それ自体が「目的」なのではありません。あくまでも原爆投下は戦争の「手段」としてなされたものです。そもそも戦争がなければ広島に原爆が投下されることはなかったはずです。つまり、「広島の惨禍」における「過ち」とは、「原爆投下」ではなく「戦争」なのです。それを「原爆投下」としてしかとらえないのは、「木を見て森を見ず」であるといえます。

そうだとすれば、その「過ち」は、「繰り返されてはならない」ものではなく、「繰り返してはならない」ものです。「広島の惨禍」を二度と繰り返さないということは、「原爆投下」にとどまらず、「戦争」という過ちを二度と繰り返さないということです。だから、原爆死没者慰霊碑*1に刻まれている「過ちは繰返しませぬから」という言葉は、正しいのです。

先の戦争では、日本は紛れもなく「加害者」でした。広島は、「ヒロシマ」であると同時に、「廣島」でした。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という原爆死没者慰霊碑の碑文は、「すべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉」であると言われています*2。そこで言われる「戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓うすべての人びと」に日本国民が含まれることは、言うまでもないでしょう。たとえ日本が、「世界唯一の被爆国」であろうと。

 

*1:広島市 - 原爆死没者慰霊碑の正式名称を教えて欲しい。(FAQID-5801) http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1213070670146/index.html

*2:広島市 - 原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、どういう意味ですか?(FAQID-5801) http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/1111632890024/index.html

「オタク」だからこそ、コンテンツの「危うさ」としっかり向き合う。

私は「反戦思想」の持ち主ですが、しかし同時に「オタク趣味者」ですから、いわゆる「ミリタリーもの」を頭から否定するようなことはしたくありません。ですが、日本軍を題材とした「ミリタリーもの」が「危うさ」を内包していることは、やはり否定できないと思います。その「危うさ」とは、思うに、日本による過去の侵略戦争や植民地支配に対する抵抗感を希薄化させることです。

もっとも、だからといって、そのようなコンテンツの存在を完全に否定すべきだとは思いません。そうは言っても、やはりそのようなコンテンツの愛好者は、コンテンツを楽しむうえでそれが内包する「危うさ」をしっかりと認識し、そのような「危うさ」を内包するコンテンツを扱っていることをしっかりと自覚する必要があると思います。

このようなことは、私が愛好する「エロティックな創作表現」についても、同様にいえます。「エロティックな創作表現」を愛好することについて問題があるとすれば、それは「エロティックな創作表現」を愛好することそれ自体ではなく、コンテンツが内包している「危うさ」を認識しない、あるいは、それどころか「危うさ」を否定するような態度ではないでしょうか。

コンテンツが内包している「危うさ」としっかり向き合うことこそ、まさに私たちオタク趣味者がコンテンツを扱ううえで求められる「資格」であると、私は思います。

戦争の惨禍を繰り返さないために語り継ぐべき「記憶」

「戦争の惨禍が再び繰り返されないようにするためにも、『戦争の記憶』を語り継がなければならない」ということがしばしば言われます。

「『戦争の記憶』を語り継がなければならない」ことには、私も異論はありません。しかしながら、そこで語られる「戦争の記憶」とは、「空襲被害」や「日本軍兵士の戦死や抑留体験」といった、「日本人」が「戦争の被害者」であるものが殆どであるように思われます。もちろん、戦争のおぞましさを知るうえで、そのような記憶を語り継ぐことも大切だとは思います。ですが、はたして本当にそれだけでよいのでしょうか。

空襲被害や出征によって多くの「日本人」の命が失われたからこそ、そのような惨禍が再び繰り返されないようにするために「日本人」が「戦争の被害者」である記憶を語り継ぐべきだというのは、それはそれで一理あるとは思います。ですが、日本の国土が空襲の被害に遭いさえしなければ、日本が加担する「帝国の戦争」において他の国の国土が空襲により焦土と化してもかまわないのでしょうか。日本の若者が戦地に赴きさえしなければ、日本が加担する「帝国の戦争」において他の国の若者が日本の若者の代わりに戦地に赴き命を落としてもかまわないのでしょうか。

そもそも「戦争の惨禍が再び繰り返されないようにするためにも……」というのは、正しくありません。先の戦争において、日本は紛れもなく「加害者」です。そうであるならば、「戦争の記憶」を語り継ぐのは、戦争の惨禍を再び繰り返さないようにするためです。そのためにも、なによりもまず語られなければならないのは、「日本という国家が戦争の加害者である記憶」であると思います。

しかるに、「日本という国家が戦争の加害者である記憶」を語り継ぐことを蔑ろにしてきた結果、日本の国土が戦火に見舞われることばかりを憂い、日本が加担せんする「帝国の戦争」によって他の国の国土が戦火に見舞われる危険に関しては甚だ無頓着であるような「国民の意識」が形成されてしまったのではないでしょうか。

敗戦の日」を前に、平和を願い反戦を訴える諸姉諸兄には、「戦争の惨禍を再び繰り返さないために語り継ぐべき『戦争の記憶』」について今一度考えていただければ、と切に思います。

はたして「日本人」は「日韓関係」を客観的に見ることができるだろうか

「私は客観的に物事を見ることができる」と言う人がいるとします。

そうだとして、彼が「他者」との関係で物事を見る場合に、はたして彼は客観的に物事を見ることができるでしょうか。

思うに、その場合において、彼が「自己」を<主>・「他者」を<客>として見るかぎり、彼は主観から自由になることは決してできないでしょう。

これは、「日本人」が「私は客観的に『日韓関係』を見ることができる」と言う場合についても同じです。

すなわち、「日本人」が日本を<主>・韓国を<客>として見るかぎり、「日韓関係」を客観的に見ることなど決してできません。

しばしば見受けられる「私は客観的に『日韓関係』を見ることができる」と公言する人は、日本と韓国のどちらにも肩入れせずに「日韓関係」を眺めることが客観的に「日韓関係」を見ることだと考えている節があります。ですが、「日本人」は「神」ではなく、あくまでも「日本人」です。つまり、彼が眺める「日韓関係」は、「神のまなざし」で眺めたものではなく、あくまでも「日本人のまなざし」で眺めたものです。そうだとすれば、たとえ彼が日本と韓国のどちらにも肩入れしないとしても、日本を<主>・韓国を<客>として「日韓関係」を眺めるのであれば、彼は「日本人のまなざし」という主観から自由になることはできず、「日韓関係」を客観的に見ることはできないでしょう。

結局のところ、「日本人」が「韓日関係(日韓関係、ではなく)」を客観的に見ようとするならば、韓国を<主>・日本を<客>として見る必要があると思います(もっとも、韓国を<主>・日本を<客>として見ることに抵抗感を覚える「日本人」も少なくないかもしれません。ですが、誤解してならないのは、「まなざしの転倒」における<主―客>という関係は、決して「優劣関係」ではないということです。)。そうして、「まなざし」を転倒させて「韓日関係」を眺めたとき、「日本人」の目に映るのは韓国を通して見た日本の客観的な姿でしょうが、そのようにして日本を客観的に見ることこそ、むしろ今の「日本人」にとって必要なのではないでしょうか。

 

はたして本当に「『慰安婦』問題『日韓』合意」は守るに値するものだろうか

「『慰安婦』問題『日韓』合意」について、日本政府やマスメディア、「『日韓』合意」支持者は、しばしば「国家間の合意だから守られなければならない」ということを強調します。「合意は守られなければならない」というのが原則であるのは、確かにその通りです。しかし、はたしてその原則は絶対的なものでしょうか。

思うに、「『日韓』合意が守られなければならないのは、国家間の『合意』だからである」というのは、決して充分な答えではありません。なぜなら「合意」であっても、それが「有効要件」を欠くものであれば、「守られなければならない」とはいえないからです。そのような「合意」は、取り消されてしかるべきです(あらかじめ告白しておきますと、私は国際法について十分な知識を持ち合わせていません。しかし、*条約法に関するウィーン法48条・49条に鑑みれば、「国家間の合意」についてこのような解釈も可能だと思います。)。

さて、「『慰安婦』問題『日韓』合意」は、加害者である日本の政府を代表して日本の首相が「心からおわびと反省の気持ちを表明」し、(代表の正当性はさておき)被害者を代表する韓国政府がそれを受け入れることで、「『慰安婦』問題」の解決を図ろうとするものです。そうであるならば、なによりもまず日本の「反省の気持ちを表明」が真意に基づくものであることが必要です。しかるに、合意後の日本政府の態度はどうでしょうか。日本政府(と安倍首相)は「『慰安婦』問題」の根源である植民地支配の正当化に腐心し、「『慰安婦』問題」が戦争犯罪であることを否定する発言を繰り返す*1などしています。そして、つい先日には、駐アトランタ日本総領事が「『慰安婦』は売春婦だ」などと日本軍性奴隷被害者を侮辱する妄言を吐くという事件*2まで起こっています。このように日本政府(と安倍首相)が「心からのおわびと反省の気持ち」と矛盾した態度をとり続けていることに鑑みれば、日本の「反省の気持ちを表明」は、それが真意に基づくものであることを否定されても仕方ありません。

残念ながら、日本のマスメディアの論調は、「国家間の合意だから守られなければなら」ず、韓国が合意の履行に難色を示していることがいかに「不誠実」であるかを強調したものがほとんどです。ですが、これまで本稿で述べてきましたように、韓国が合意の履行に難色を示しているのは、日本の「反省の気持ちを表明」の真意性が否定されても仕方ない事情が多々あるからであって、いわば「詐欺的になされた瑕疵ある合意」だからです。そうだとすれば、そのような「瑕疵ある合意」は「有効要件」を欠くものであって取り消されてしかるべきであり、韓国が合意の履行に難色を示すことは、「不誠実」であるどころか、むしろ「法の正義」に沿うものであるといえます。それにしても、日本のマスメディアはどうしてそれが分からないのでしょうか。あるいは、分かってて分からないふりをしているのでしょうか。もし後者なら、マスメディアの本分にもとると言わざるを得ません。

そもそも、「『慰安婦』問題」の解決にとって真に大切なのは、「12・28『日韓』合意」が履行されることでしょうか。日本政府はそう信じて疑わないでしょうが、しかし日本政府が「12・28『日韓』合意」に拘泥すれば拘泥するほど、「『慰安婦』問題」の真の解決からは遠のくでしょう。

 

*条約法に関するウィーン条約

 第48条(錯誤)

① いずれの国も、条約についての錯誤が、条約の締結の時に存在すると自国が考えていた事実又は事態であつて条約に拘束されることについての自国の同意の不可欠の基礎を成していた事実又は事態に係る錯誤である場合には、当該錯誤を条約に拘束されることについての自国の同意を無効にする根拠として援用することができる。
② ①の規定は、国が自らの行為を通じて当該錯誤の発生に寄与した場合又は国が何らかの錯誤の発生の可能性を予見することができる状況に置かれていた場合には、適用しない。
③ 条約文の字句のみに係る錯誤は、条約の有効性に影響を及ぼすものではない。このような錯誤については、第79条の規定を適用する。 

第49条(詐欺)

いずれの国も、他の交渉国の詐欺行為によつて条約を締結することとなつた場合には、当該詐欺を条約に拘束されることについての自国の同意を無効にする根拠として援用することができる。

*1:国連での慰安婦強制連行否定発言 安倍首相が「外務省に直接指示」 http://japan.hani.co.kr/arti/international/23521.html

*2:慰安婦は売春婦」駐アトランタ日本総領事が妄言 http://japan.hani.co.kr/arti/international/27760.html

「戦後平和主義」の彼方へ

いわゆる「護憲派」の中にも、「日本は平和主義国家である」と信じて疑わない人は少なくないだろうと思います。たしかに、日本国憲法は前文および9条に「平和主義」を規定しています。しかしながら、実態としての日本国は、敗戦後から現在に至るまで本当に「平和主義国家」であったといえるでしょうか。

このような疑問を投げかければ、おそらく「憲法9条のおかげで戦後の日本は戦争に手を染めることなく、平和国家を貫いてきたじゃないか」といった答えが返ってくるでしょう。ですが、私はそのような「模範解答」に、違和感を覚えずにいられません。たしかに、「戦後」の日本が戦争で自らの手を血で染めることはなかったというのは事実でしょう。そうだとしても、「戦後日本」が、朝鮮戦争ベトナム戦争といった「帝国の、帝国による、帝国のための戦争」に加担し、甘い汁を吸って肥え太ってきたのもまた事実です。そういった事実から目を背けて「憲法9条のおかげで戦後の日本は戦争に手を染めることなく、平和国家を貫いてきた」などと言うのは、欺瞞以外のなにものでもありません。

しかし、だからといって、安倍政権のように日本が「帝国の、帝国による、帝国のための戦争」に加担し自らの手を血で染めることを「平和主義」だなどと言うのもまた欺瞞です。誤解のないようにお断りしておきますが、私は決して「戦後の日本が戦争に手を染めなかった」ことを批判したいのではありません。私が言いたいのは、「日本国民」は、「戦後日本」が、朝鮮戦争ベトナム戦争といった「帝国の、帝国による、帝国のための戦争」に加担し、甘い汁を吸って肥え太ってきたという、「『戦後日本』の負の事実」としっかり向き合わなければならない、ということです。今まさに進行している「帝国の、帝国による、帝国のための戦争」危機について、「日本が戦争に巻き込まれる」と言う人がいます。しかし、「日本が戦争に巻き込まれる」というのは誤解です。なぜなら、日本政府は能動的に「帝国の、帝国による、帝国のための戦争」に加担しようとしているのですから。しかるに、「日本国民」が「日本が戦争に巻き込まれる」などと誤解するのは、「『戦後日本』の負の事実」としっかり向き合ってこなかったからではないでしょうか。残念ながら、「日本国民」が「『戦後日本』の負の事実」としっかり向き合わないかぎり、「もはや戦後ではない」どころか、未だ「戦後」でさえないでしょう。

安倍政権が「平和主義」の意味を無効化せんとする今、安倍政権の企みを阻止するためにも、私たちは「平和主義」の意味を問い直す必要があるのではないでしょうか。「戦後平和主義」は、決して恒久不変のものではありません。むしろそれは、日本が真の「平和主義国家」となるために乗り越えられるべきものであると、私は思います。

乙支유람

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韓国の首都・ソウルは、香港、シンガポールバンコク、上海、東京などと同様、アジアを代表する世界都市です。そのソウルの中心部にある街・乙支路に、「かつてのソウル」の姿をとどめたコルモク(路地)があります。高層ビルが立ち並ぶ「現在のソウル」にあって、このコルモクに少々寂れた印象を抱く人も少なくないかもしれません。しかし実は、そのコルモクこそ、現在の「世界都市ソウル」を形作った、まさに「原動力」なのです。

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過日、私はその乙支路のコルモクを歩いてみました。

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韓国の産業発展というと、多くの人がサムスンやLG、現代自動車などを思い浮かべるでしょう。しかし、それらはあくまでも「表層」にすぎません。サムスンなどの躍動に代表される韓国の産業発展を根底で支えたエンジニアたちの町、それが乙支路の「鉄工所路地(철공소 골목)」です。

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「鉄工所路地」は、今もなお多くのエンジニアの皆さんが韓国の産業発展を根底で支え続けています。そのようなエンジニアの皆さんの仕事に対する若い人たちの関心が高まっているのでしょうか、「鉄工所路地」では、金属加工に勤しむ職人さんに何やら質問していた若い見学者の姿を目にしました。

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鉄工所路地界隈には、このような雰囲気のあるコルモクが多く残っており、映画のロケ地にも使われたりしているようです。

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こちらは鉄工所路地からほど近い場所にある、山林洞という地域です。

街は生き物ですから、死にゆく細胞もあります。しかし、「死」があるからこそ「生」があるのであり、つまり「生」はエロスの力によって「死」から生まれるのです。そんな、「死」から「生」を生み出すエロティックな「魔術」を扱うのは、芸術家の仕事です。「死にゆく細胞」であるこの街でも、芸術家が工房を設けて「エロスな仕事」を担っていました。

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私が今回訪れた乙支路のこのコルモクも、もしかするとそう遠くないうちに姿を消してしまうかもしれません。もちろん、街は生き物ですから、それは仕方のないことです。

ですが、都市再開発は、ただ単に街を作り変えることではなく、今も韓国の発展を根底で支えている多くの人たちが生きるこの街を生かす「再生」であって欲しいと、私は切に願います。街は、そこで生きる人たちがいるからこそ、街なのですから。