葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

私の친구(友)であるピンデトックは、マッコリの最良の친구である。

「韓国の酒」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、おそらくマッコリ(막걸리)だろうと思います。

そして、日本では、マッコリはホルモン(モツ)をつまみながら飲まれることが多いだろうと思います。

事実、マッコリとホルモンは相性抜群です。

しかし、私は韓国でモツをつまみに一杯やるときは、マッコリではなくソジュ(焼酎)を飲みます。それというのも、韓国にはマッコリの「最良の友」がいるからです。

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マッコリの「最良の友」――その名は、ピンデトック(빈대떡)。このピンデトック、見た目は日本でもおなじみのチヂミ(韓国では、「ジョン」という呼び名が一般的です。)とよく似ていますが、チヂミとは違い、緑豆を挽いた粉が生地に使われます。食感も、私の貧相な語彙で表現すれば、チヂミが「カリカリもちもち」であるのに対して、ピンデトックは「カリカリふわふわ」といった感じです。

なぜピンデトックがマッコリの「最良の友」なのか。思うに、ピンデトックは豚脂を使って焼かれるのですが、程よい酸味のある生マッコリ(この「生」というのは、とても重要なことです。)で口の中の油を洗い流す爽快感、というのもあるでしょう。しかし、それはホルモンも同じでしょうから、おそらくそれだけではないはずです。

ピンデトックがマッコリの「最良の友」なのは、やはり私のような韓国の酒場を放浪する左党にとって、マッコリも、ピンデトックも、どちらもいつでも肩肘張らず気軽に付き合えるチング(友)だからなのだと思います。

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韓国の左党の間では、「雨が降るとマッコリを飲みながらピンデトックが食べたくなる」という言い伝えがあるそうです。そんなロマンティックな(?)エピソードもあるチングたちと韓国の酒場で過ごす時間は、私にとってささやかながら贅沢な至福の時間です。

 

ヘイトスピーチを肯定するための詭弁は、もうやめよう。

「私はヘイトスピーチには反対だ。だが、ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる。だから、表現の自由を守るためにも、ヘイトスピーチの自由を認めるべきである」と言う人がいます。もしかすると、このような言説を「正論」だと思う人も少なくないかもしれません。しかし、それはヘイトスピーチを肯定するための詭弁でしかありません。

すなわち、①「ヘイトスピーチは許されるか(ヘイトスピーチの自由はあるか)」という問題と、②「ヘイトスピーチが許されないとして、その許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」という問題は、それぞれ別個のものです。しかるに、①と②の問題を一緒くたにして、②の問題において公権力の恣意性の働くおそれがあるから、ヘイトスピーチを許すべきである(ヘイトスピーチの自由はある)とするのは、つまるところヘイトスピーチを肯定するための詭弁であると言わざるを得ません。

また、「ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる」というのも誤解です。つまり、「許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」は、民主的手続によって成立する法律によって決められます。そして、人権保障の見地から、法律には明確性が求められます。もし、法律が恣意的な公権力の行使を許すような(それとともに、表現の萎縮効果をもたらすような)不明確なものであれば、その法律は憲法に違反し無効です。②における議論は、まさしく恣意的な公権力の行使を許さないための議論なのです。このように、そもそも「許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めること」を許すような法律を制定することは憲法違反であって許されないのですから、「ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる」というのは、誤解なのです。もっとも、議会制民主主義を否定し、「許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」は民主的手続によって成立する法律によっても決めることはできない、と言うのであれば、仕方がありませんが……。

そもそも、どうして「ヘイトスピーチは許されるか(ヘイトスピーチの自由はあるか)」という議論で、ヘイトスピーチが公権力によって規制される段階の話を持ち出して、結論的にヘイトスピーチを肯定するのでしょうか。「ヘイトスピーチを許さない」のであれば、なによりもまずは私たち自身が、私たちが許さないヘイトスピーチがどのようなものであるかを考えるべきです。それこそが、「自由」ということではないでしょうか。

「嫌韓」と「反日」という言葉から滲み出る傲慢さ

(記者有論)日本と韓国 「普段着」の関係、伝えたい 桜井泉:朝日新聞デジタル

http://www.asahi.com/articles/DA3S13229745.html

 

朝日新聞の桜井記者が「『普段着』の日韓関係」を伝えたいとお考えになるのは、大変結構なことだと思います。また、「『普段着』の日韓関係」を知ることで「無知からくる偏見」を取り払うことも、もちろん大切なことだと思います。

しかし、その前に桜井氏は、どうして「嫌韓本」と「平和の少女像」を同列に並べて語ることに疑問を抱かないのでしょうか。「嫌韓本」が他民族を蔑視し民族憎悪を煽動するものであるのに対して、「平和の少女像」は戦時性暴力という人権侵害を肯定することに抗議するものです。しかるに、「嫌韓本」と「平和の少女像」を同列に並べて語ることは、愚劣であると言わざるを得ません。もし桜井氏が「平和の少女像」を「日本に対する嫌がらせ」だと考えているのなら、私は桜井氏の記者としての見識を疑います。

否、聡明な朝日新聞の記者の方が「平和の少女像」の意義をお分かりにならないなどということはないでしょう。ですが、分かっているのに分からないふりをするというのは、むしろ性質が悪いといえます。

そもそも、「嫌韓」と「反日」という言葉をなんの留保もなく使うというのは、「日本国民の傲慢」だと私は思います。なぜなら、「嫌韓」というのはあくまでも「好き嫌いの問題」であって「好きも嫌いも『日本(国民)』の自由」である一方、「反日」というのは「日本」に反抗することを「許されざる悪」とするものであるからです。つまり、「嫌韓」と「反日」という言葉は、どこまでも「自分本位」な、傲慢さが滲み出ている言葉だということです。

残念ながら、「韓国=反日という単純な図式」などというものの存在それ自体に疑念を抱かない桜井氏の「まなざし」は、「植民者」のそれに他なりません。そのような「まなざし」によって眺めれらた「『普段着』の日韓関係」とは、はたしていかなるものでしょうか。

 

旅をしても、「本当の自分」を見つけることはできないかもしれないけれど……

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「自分探しの旅」という言葉に対して、「旅をしたところで、『本当の自分』などというものを見つけることなどできはしない。そもそも、どうしてニセモノの自分に『本当の自分』を探すことができようか」というのはよく言われることです。

たしかに、「旅をしたところで、『本当の自分』などというものを見つけることなどできはしない」というのは、全くその通りだと私も思います。しかし、だからといって、旅をすることが無意味であるとは、私は思いません。

たとえ旅をすることで「本当の自分」を見つけることができなくても、旅をすることで日常から離れれば、ちっぽけな自分、もどかしい自分、そんな等身大の自分を受け入れることができるようになるはずです。それはきっと、日常から離れることで、いやがおうでも等身大の自分と向き合わなければならなくなるからでしょう。

そうして受け入れた、いまここにある自分こそが、「本当の自分」なのだと思います。つまり、「私らしく生きる」ことは、いまここにある私を生きること以外の何ものでもないのだと思います。

 

――ある夜、旅先の街の片隅で、ちっぽけな存在である私は、そんな自分にもどかしさを感じながら、そんなことをふと思ったりしたのでした。

 

日本政府による朝鮮学校差別について、私が思うこと。

日本政府による朝鮮学校に対する差別政策を正当化する理由として、いわゆる「“北朝鮮”核問題」ではなく、「“北朝鮮”政府による人権侵害問題」を挙げる「日本国民」がいます。「“北朝鮮”政府による人権侵害問題」も「“北朝鮮”核問題」と同様、それを理由として挙げる「日本国民」は、日本政府が朝鮮学校に対する差別政策を正当化する理由として主張する「“北朝鮮”政府や朝鮮総連朝鮮学校に対する影響力」というものが念頭にあるのでしょう。しかし、私は本稿で、「“北朝鮮”政府や朝鮮総連朝鮮学校に対する影響力」について論じるつもりはありません。なぜなら、それは「日本政府による朝鮮学校に対する差別問題」を考える上で、全くもって本質的なものではないからです。

では、仮に朝鮮学校に対する朝鮮民主主義人民共和国政府(以下、DPRKと略す)の朝鮮学校に対する影響力があるとしましょう。そして、日本のマスメディア報道から窺い知る限りでは、たしかにDPRK政府による人権侵害があるのは事実かもしれません。しかし、一方で沖縄の米軍基地に反対する市民に対する暴力的な弾圧や、入管収容所における外国人収容者に対する苛烈な人権侵害といった、日本政府による人権侵害があるのも事実です。そうだとして、DPRK政府による人権侵害があることを理由として、日本政府による在日コリアン差別という人権侵害が許されるというのなら、日本政府による人権侵害があることを理由として、ある国の政府による日本人差別という人権侵害も許されるのでしょうか。もちろん、答えは「否」です。しかるに、どうして一部の(とは言え、決して少なくない)「日本国民」は、DPRK政府による人権侵害があることを理由に、日本政府による朝鮮学校に対する差別政策という、在日コリアンの平等権や民族教育を受ける権利という人権の侵害を肯定するのでしょうか。

もちろん、日本政府による人権侵害と同様に、DPRK政府による人権侵害も非難されてしかるべきでしょう。しかし、だからといって日本政府による在日コリアンに対する人権侵害を肯定することは、言語道断だと言わざるを得ません。

そもそも、「“北朝鮮”核問題」や「“北朝鮮”政府による人権侵害問題」は、日本政府による在日コリアン差別政策を支える、「北朝鮮敵視(あるいは蔑視)」を正当化する理由たり得るのでしょうか。思うに、それらは、つまるところ後付けの理由でしかないでしょう。なぜなら、「“北朝鮮”核問題」や「“北朝鮮”政府による人権侵害問題」が顕在化するよりも前から、「日本」という国家は、ずっと「朝鮮」を敵視、あるいは蔑視してきたのですから。

日本資本による搾取も、外国資本による搾取も、唾棄すべき搾取であることに変わりはない。

近年、韓国や中国といった(日本以外の)アジア諸国の企業が躍進する一方で、日本企業は凋落の一途をたどっています。その結果、これまで「外国人」を「雇う側」であった日本人は、「外国人」に「雇われる側」になりつつあります。私は、そのこと自体を批判するつもりは毛頭ありませんし、むしろ私は、日本人が「外国人」に「雇われる側」になることを嫌悪するような排外主義的な態度を批判します。

しかしながら、私は、そのような日本企業の凋落によって外国の資本に日本人が雇われる側になりつつある現象を手放しで礼賛する気にはなれません。なぜなら、例えば日本資本による中国人民の搾取も、中国資本による日本人民の搾取も、唾棄すべき搾取であることに変わりはないからです。残念ながら、日本企業の凋落によって外国の資本に日本人が雇われる側になりつつある現象を礼賛する人たちは、その点を看過しているように思えてなりません。

おそらく、彼らの「外国資本礼賛」には、これまで搾取の限りを尽くしてきた日本資本に対する反感というのもあるでしょう。これまで搾取の限りを尽くしてきた日本資本は非難されてしかるべきです。しかし、これまで他国の人民を搾取してきた日本資本が弱体化したことで、日本の人民が外国資本に搾取されるようになりつつある現象を嘲笑うような風潮には、やはり私は抵抗感を覚えます。もちろん、これまで日本資本によって他国の人民が搾取されるのを嘲笑ったり黙認してきた日本国民が猛省すべきであることは言うまでもありません。ですが、だからといって外国の資本によって搾取されるようになりつつある日本の人民を嘲笑うような人は、これまで日本資本による搾取を容認してきた日本国民と「同罪」です。それに、外国の資本によって搾取されるようになりつつある日本の人民を嘲笑うことは、これまで日本資本に搾取されてきたアジア諸国の人民を嘲笑うのと同じことです。

私自身、「日本」には批判的な人間ですから、「日本企業」を批判することは大いに結構なことだと思います。ですが、やはり批判の対象を見誤ってはなりません。批判すべきなのは、あくまでも「資本による搾取」なのです。

「表現規制」に関する、よくある誤解について。

右も左も極端な考え方は「表現の自由」を嫌う――前参議院議員山田太郎さん - エキサイトニュース
http://www.excite.co.jp/News/smadan/E1507102952423/

表現の自由」に関する「有識者」として知られている山田太郎氏ですが、「規制のされ方には二種類あります。ひとつは政府や行政が法律で規制するやり方。もうひとつは民間の自主規制ですね。」というように、民間企業(団体)による「自主規制」を公権力による規制と同列に扱っているのは、「表現の自由」論に対する理解が不十分であると言わざるをえません(なお、リンク先の記事中の山田氏の言説には、他にも批判されてしかるべき点がいくつかありますが、本稿では一点に絞って批判します。)。

表現の自由」論は、あくまでも憲法学上の議論ですから、「憲法は私人と国家の関係を規律するものである」という原理原則をおさえる必要があります。そうして、山田氏の言う「萎縮効果」論について考えてみますと、いわゆる「萎縮効果」論は、公権力による規制が「広汎」あるいは「曖昧」であるがゆえに、表現者が本来適法に行いうるはずの表現行為を差し控えてしまう、というものです。しかるに、山田氏は出版社等の萎縮の「原因」である公権力による規制が「広汎」あるいは「曖昧」であることを問題とせず、「結果」である出版社等の萎縮そのものを、あたかも公権力による規制を代替するものであるかのように論じている点は、論理が飛躍しているといえます。つまり、「憲法は私人と国家の関係を規律するものである」という原理原則からすれば、「萎縮効果」論で問われるべきは公権力による「広汎」あるいは「曖昧」な規制であり、公権力による「広汎」あるいは「曖昧」な規制に萎縮して本来適法に行いうるはずの表現行為を差し控えてしまう出版社等はいわば「被害者」であって、それをあたかも公権力の「共犯者」であるかのように捉えるのは、的確ではありません(ただ、もちろん出版社等の「自主規制」を批判することも「表現の自由」です。そうはいっても、やはり出版社等の「自主規制」と公権力による規制を同列に扱うのは妥当でないことを明確にしておくべきです。)。

もっとも、出版社等の社会的影響力の大きさに鑑みれば、憲法規定を私人間に適用する(いかなる形で適用するかには争いがありますが、民法等私法の一般条項の解釈を通じて間接的に適用しようとする「間接適用説」が判例・通説です。)「私人間効力」について論ずる余地はあるでしょう。しかし、その場合も国家(公権力)とは異なり、作家等の「表現の自由」に対立する出版社等の権利・自由を考慮する必要がありますから、出版社等の「自主規制」を公権力による規制と同一視することはできません。

山田氏は、「文句やクレームも表現の一種」だと言います。私も、その点に関しては山田氏と同意見です。しかし、そうであれば出版社等にも「自由」はあるのですから、そのような「文句やクレーム」を出版社等が吟味し、熟考したうえで自らの意思によって出版等を差し控えるのも、作家等の表現の自由と同様に尊重すべきである出版社等の「自由」ではないでしょうか。「自由」とは、決して「無思慮」ではありません。

もちろん、個人と企業(団体)の「力関係」は看過すべきではないと思います。ですが、そもそも「文句やクレーム」が作家の表現行為に向けられているものであることに鑑みれば、なによりもまず作家自身が「文句やクレーム」を吟味し、熟考して自らの表現行為についての態度を決めることこそが、作家の表現の自由にとって大切なのではないでしょうか。繰り返しますが、「自由」とは、決して「無思慮」ではありません。

私も「オタク」の端くれですから、漫画やアニメに対する公権力による不当な制限には反対です。そしてまた、「エロティックな表現」も「表現の自由」を支える価値である自己実現の価値に資するものであり、人間の尊厳を踏みにじるものでないかぎりその自由が保障されるべきであると私は考えますから、いわれのない批判には反論する所存です。しかし、本当に「表現の自由」を守るというのであれば、やはり「表現の自由」論の原理原則を踏まえた議論をする必要があると、私は思います。