葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「両国の合意により日本は韓国を併合した」という言説は欺瞞である。

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いわゆる「韓国*1『併合』」(1910年)について、日本では「両国の合意により日本は韓国を併合した」という言説が主流です。かかる言説が日本で主流を占めているのは、つまるところ日本の韓国に対する植民地支配が天皇の名のもとに行われたものであるゆえ、それが不法であることを認めたくないからでしょう。

たしかに、「韓国併合ニ関スル条約」だけを見れば、「両国の合意により日本は韓国を併合した」ようにも思えます。しかし、次に述べる「韓国『併合』」に至る歴史的経緯を見れば、「両国の合意により日本は韓国を併合した」という言説は欺瞞であることがわかります。

そこで、日本は七月一七日、単独で内政改革を朝鮮政府に通告し、二〇日には最後通牒として清国との宗属関係の破棄と清軍の撤兵を朝鮮政府に求めた。そして、回答期限が過ぎた七月二三日早朝、日本は突如として、強大な軍事力をもって王宮占領を敢行し、一瞬のうちに閔氏政権を打倒した。

 

日本軍による朝鮮王宮占領(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 107頁)

日本は、1875年の雲揚号事件江華島事件)を皮切りに、日本軍による朝鮮王宮占領(1894年)や日本の公使や軍人らによる朝鮮王妃殺害(1895年)、日露戦争の開戦と同時に行った首都・漢城(ソウル)の軍事占領と「日韓議定書」の強要(1904年)など、強大な軍事力を背景に朝鮮(大韓帝国)に対する支配を強めていきました。

伊藤は無理強いしたが、高宗は「政府臣僚」や「一般人民」にも諮る必要があるとして拒絶した。伊藤は、「君主専制国」の韓国では皇帝の意志だけで決められるはずだし、いたずらに決定を延期する場合は韓国にとって不利益になると脅迫した。[……]そして一六日、伊藤は各大臣に条約締結を迫ったが、八人の大臣はみなこれを拒否した。[……]大臣たちは互いに拒絶の意志を確認し合ったが、日本の脅迫は軍事力を後ろ盾とするものであった。[……]王宮内外は駐箚軍がいく重にも取り囲み、伊藤は駐韓公使の林権助と駐箚軍司令官長谷川好道率いる五〇名ほどの憲兵を従えて入宮した。[……]外部大臣の邸璽(職印)は、日本人外交官が憲兵隊を引き連れて外部大臣官邸から奪ってきた。

 

「日韓保護条約」の強要(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 189頁―191頁)

こうして、日本は強大な軍事力を背景に朝鮮(大韓帝国)に対する支配を強めたのち、「韓国『併合』」に先立つ1905年には、「日韓保護条約(第2次日韓協約)」を強要して韓国の外交権を奪い、日本の事実上の属国としました。さらに、1907年には「第3次日韓協約」を強要し、内政権の剥奪と軍隊の解散を強行しました。

すでに乙巳保護条約と第三次日韓協約の締結によって、朝鮮は日本に合体したも同然であった。また、義兵活動も息の根をほとんど止められていた。民衆は暴力に翻弄され、生活はあまりの困苦に打ちひしがれていた。

 

(趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書 252頁)

つまり、「韓国『併合』」が行われた当時、韓国はすでに日本の事実上の属国として日本の支配下におかれていたのであり、それゆえ「韓国『併合』」は、真の「両国の合意によ」るものとは到底言えないのです。大韓民国では日帝植民地時代を「日帝強占(強制占領)期」と呼びますが、その呼び名のとおり、日本は韓国を強制的に占領したのです。

日本の「ネット右翼」は、よく「日本の韓国統治は植民地支配ではなかった」と言います。しかし、上述のとおり「韓国『併合』」は、真の「両国の合意によ」るものとは到底言えないのですから、「日本の韓国統治」は不法な植民地支配にほかなりません。そして、そうである以上、日本政府は、日帝による不法な植民地支配と、その下での人権侵害について、決して法的責任を免れ得ないのです。

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*1:本稿において「韓国」とは、大韓帝国(1897年から1910年まで朝鮮が用いた国号)をいいます。