葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「外国人の人権保障」の問題の本質

外国人受け入れ拡大から考える 問題は日本の人権保障 憲法季評:朝日新聞デジタル

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上掲のコラムで、名古屋大学の松尾陽教授は次のように述べています。

外国人の人権保障を厚くすべきだという意見に対しては、日本人の権利も大切ではないかという声がすぐにあがってくる。[……]この意見は、ある意味、正しい。人権保障とは、基本的な権利を「等しく」保障していくことを意味する。「等しく」保障する際の基準点となるのは、日本人の権利がどれだけ保障されているかである。その意味で、日本人の権利も大切だという声は正しい。

そして、「外国人の人権保障」の問題について、

「日本人/外国人」と分断して問題を把握する必要は必ずしもない。考えなくてはならないのは、日本社会における人権保障が十分になされているかどうかである。

と述べています。

考えなくてはならないのは、日本社会における人権保障が十分になされているかどうかである。

というのは、もちろんその通りです。しかし、

「等しく」保障する際の基準点となるのは、日本人の権利がどれだけ保障されているかである。

日本人/外国人と分断して問題を把握する必要は必ずしもない。

といった言説には、いささかの違和感を覚えます。

人権とは、「人種、性、身分、国籍などの区別に関係なく、人間であることに基づいて当然に享有できる権利」です(人権の普遍性)。それゆえ、「人権保障とは、基本的な権利を『等しく』保障していくことを意味する」のです。しかるに、「日本人」には当然に保障されている「人間であることに基づいて当然に享有できる権利」が、「外国人」には「外国人だから」という理由で保障されていない、それこそがまさに「外国人の人権保障」の問題の本質なのです。松尾教授は誤解していらっしゃるようですが、「外国人の人権保障」を求める人たちは、決して「日本人の権利」をないがしろにして「外国人」の人権保障を厚くすべきだと主張しているのではありません。「日本人」には当然に保障されているにもかかわらず、「外国人」には「外国人だから」いう理由で保障されていない「人間であることに基づいて当然に享有できる権利」を、「外国人」に対しても差別なく「等しく」保障すべきだと主張しているのです。そして、「日本人」には当然に保障されている「人間であることに基づいて当然に享有できる権利」を「外国人」に対しても「等しく」保障する際の基準点となるのは、決して「日本人の権利がどれだけ保障されているか」ではありません。その意味で、日本人の権利も大切だという声は全くもってナンセンスです。そもそも「外国人の人権保障を厚くすべきだという意見」というのは、「外国人のせいで日本人の権利がないがしろにされている」という妄言を吐く排外主義者が拵えた「藁人形」にすぎません。

日本社会における人権保障については、立派な憲法があるにもかかわらず人権保障が十分に実現されていない日本の現状に鑑みれば、松尾教授が指摘するように「外国人の人権保障が不十分だというとき、日本人の権利保障も十分ではない可能性」もあるでしょう。しかし、それよりも、(人権保障の実現が不十分ながらも)「日本人」には当然に保障されている「人間であることに基づいて当然に享有できる権利」が、「外国人」には「外国人だから」という理由で保障されていないことのほうがはるかに多い。だからこそ、「日本人の権利保障」とは別に「外国人の人権保障」が問題となるのです。

こうしてみるとわかるように、「日本人/外国人と分断して問題を把握する必要は必ずしもない」という言説は、「外国人の人権保障」の問題の本質を見誤るものです。そして、この言説は、日本社会の構造的差別にいささか無頓着です。「外国人の人権保障」の問題に関して考えなくてはならない「日本社会における人権保障が十分になされているかどうか」とは、「日本人の権利がどれだけ保障されているか」ではなく、「日本人」には当然に保障されている「人間であることに基づいて当然に享有できる権利」が、「外国人」にも差別なく等しく保障されているかどうかなのです。

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