葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「民度」という植民地主義的な言葉を平気で使う人たち

民度」という言葉があります。この言葉を悪気なく使う人は少なくありませんが、私は「民度」という言葉に抵抗感を覚えます。

民度」という言葉は、よく他民族蔑視の文脈で「○○人は民度が低い」というふうに、あるいはその裏返しである自民族の優位性を誇る文脈で「○○人と比べて、われわれ日本人は民度が高い」というふうに使われることからわかるように、実に植民地主義的な言葉です。植民地主義者たちは、植民地支配を正当化するための方便として他民族を自民族より劣ったものとみなしますが、「民度」という言葉はそのための便利な道具であり、それはいわば植民地主義のモノサシです。それゆえ、植民地主義者たちは「民度」という言葉を好んで使うのです。

コロナ死者少ないのは「民度が違うから」 麻生太郎氏 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル

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「この国の持つ民度のお陰」天皇陛下のお言葉に込められた意味 - ライブドアニュース

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このような「民度」という言葉を、比較的新しい言葉であると思っている人も少なくないようです。しかし、「民度」という言葉は、例えば日帝植民地支配下の朝鮮と台湾でそれぞれ施行された朝鮮教育令(1911年)および台湾教育令(1919年)第3条の条文(「教育ハ時勢及民度ニ適合セシムルコトヲ期スヘシ」)の中に見られるように、戦前から植民地主義的に使われていました。つまり、「民度」という言葉は、歴史的にみても植民地主義的な言葉なのです。

他民族蔑視の文脈、あるいはその裏返しである自民族の優位性を誇る文脈で使われることが多い「民度」という言葉ですが、それは時として「リベラル派」によって日本社会を批判する文脈で使われることもあります。しかし、これまで述べたように「民度」が植民地主義的な言葉であることに鑑みれば、たとえ日本社会を批判するためであっても、「民度」という言葉を使うべきではないでしょう。