あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

日本人が尹東柱を記憶しなければならない理由

日韓友好の木、何度も折られる 「異論あるなら言論で」:朝日新聞デジタル

 

なによりもまず言わなければならないことは、これは絶対に許してはならない卑劣なヘイトクライムだということです。これが絶対に許してはならない卑劣なヘイトクライムであるのは、第一にはコリアンに対する加害欲求をむき出しにするものだからです。それに加えて、「日韓の友好関係を傷つけるから」ということを理由に挙げる人も少なくないでしょう。「日韓友好」ということに関しては、碑やムクゲを管理する市民団体も「日韓友好に異論を持つ人が傷つけたのかもしれない」と述べています*1。もちろん、私も今般の犯行が日韓の友好関係を傷つけるものであることは否定しません。しかし、この卑劣なヘイトクライムを「日韓友好」の文脈だけで語るのは、いささか浅薄にすぎると思います。このことは、日本人が尹東柱先生を記憶しなければならない理由とも関係します。日本人は、尹東柱先生が「韓国の国民的詩人」であることから、尹東柱先生をただ単に「日韓友好」のために記憶すればよいというわけではありません。尹東柱先生は、「韓国の国民的詩人」である前に、日本帝国主義に殺された朝鮮人青年です。つまり、一人の朝鮮人青年を殺した日本帝国主義と向き合い、これを克服するために、日本人は尹東柱先生を記憶しなければならないのです。「日韓友好」は、日本人が日本帝国主義を克服した先にあるものです。

今般の犯行が絶対に許してはならない卑劣なヘイトクライムであるのは、コリアンに対する加害欲求をむき出しにするものであることに加えて、一人の朝鮮人青年を殺した日本帝国主義と向き合うことを拒み、さらには日本帝国主義の犯罪を暴力でもみ消そうとするものだからです。このことに鑑みれば、今般の犯行を「日韓友好への異論」としてだけ捉えるのは、問題を矮小化するものであって妥当ではありません。

碑やムクゲを管理する市民団体が碑に込めた「命を大事にする」という思い(おそらく、これは「序詩」*2の伊吹郷訳にある「生きとし生けるものをいとおしまねば」という一節にちなんだものでしょう。)を否定する権利など、もちろん私にはありません。しかし、もしその碑に込められた(生きとし生けるすべての命と「脱色化」された)思いによって一人の朝鮮人青年を殺した日本帝国主義の罪が忘れられてしまうことがあるとすれば、それは大変残念なことです。私たち日本人は、決して日本帝国主義の罪を忘れるために尹東柱先生を利用してはなりません。たとえ、それが「日韓友好」を願い、「日本人の良心」を満たすものであったとしても。もし私たちが日本帝国主義の罪を忘れてしまうのであれば、私たちは今般のヘイトクライムの犯人と所詮「同じ穴の狢」と言わざるを得ません。