葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「対韓輸出規制」は、徹頭徹尾「日本政府の植民地主義的な暴力」の問題である。

www.asahi.com

 

いわゆる「対韓輸出規制」を、「日韓の政治的対立」の問題であると理解する日本国民が少なくありません。日本のマスメディアによる報道に接していると、そう理解してしまうのも無理はないのかもしれません。しかし、その理解は「木を見て森を見ず」であり、本質を見誤ったものです。

たしかに、日本政府は「対韓輸出規制」を「(韓国大法院が下した)徴用工判決への経済報復ではなく、安全保障上の措置だ」と主張しています。しかし、「安全保障上の措置」であることについて日本政府の説明は一貫性がなく*1、その根拠も希薄であることに鑑みれば*2、日本政府の主張が取るに足らない言い訳にすぎず、徴用工判決への経済報復であることは明白です。それに、「旧朝鮮半島出身労働者問題については、残念ながら、G20までに満足する解決策が全く示されなかった、関係省庁でいろいろと相談をした結果、韓国との間では、信頼関係が著しく損なわれたと言わざるを得ない状況になっている」と日帝強占期強制動員問題(徴用工問題)を絡めて語っているのは、ほかならぬ世耕経産相です*3。そもそも、日本が「政府が『徴用工判決への経済報復ではない』と言うのだから、『徴用工判決への経済報復ではない』のだ」というのがまかり通るような国家であるならば、もはや日本は「民主主義国家」ではないでしょう。

思うに、「対韓輸出規制」問題の構図は、日帝植民地支配下での強制動員という植民地主義的な暴力による人権侵害への抗議を、「日韓65年体制」という新植民地主義的な非対称性の下で経済報復という植民地主義的な暴力を用いて抑圧する日本政府と、それに対する韓国市民社会の抵抗です。それゆえに、韓国の市民は「国同士のいざこざだから」などと他人事にせず、日本政府の植民地主義的な暴力に抗議するのです。

日本のリベラル派の中には、韓国の市民による日本政府の植民地主義的な暴力への抗議を「反安倍政権」としか捉えていない人も少なくないかもしれません。たしかに、日本政府の植民地主義的な暴力に抗議する韓国の市民が掲げているのは「NO 일본(日本)」ではなく「NO 아베(安倍)」です。しかし、先述のとおり「対韓輸出規制」が徴用工判決への経済報復であり、徹頭徹尾「日本政府の植民地主義的な暴力」の問題であることを考えれば、「反安倍政権」にとどまるものではなく、私たち日本国民の自己のうちに内面化された植民地主義が、まさに問われているのです。そうであれば、私たち日本の市民は、日本国民として自己のうちに内面化された植民地主義と向き合い、これを克服しないまま、軽々しく「韓国市民との連帯」を口にしてはならないでしょう。

繰り返しになりますが、「対韓輸出規制」は「日韓の政治的対立」の問題ではなく、徹頭徹尾「日本政府の植民地主義的な暴力」の問題です。したがって、それは私たち日本の市民にとって「無関係な話」ではなく、私たち日本の市民は、日本政府の植民地主義的な暴力に加担して「共犯者」となるか、それとも自己のうちに内面化された植民地主義を克服して「抵抗者」となるか、その選択を韓国の市民に問われているのです。