葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「まるで北朝鮮のようだ」は、なぜ問題か。

安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道を批判するに際して、「まるで北朝鮮のようだ」と朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮と略す)を引き合いに出すリベラル派が少なくありません。

彼らは、「北朝鮮を蔑視しているのではなく、北朝鮮の体制を批判しているのだ」と言います。しかし、それは詭弁です。そもそも、安倍政権に対する批判を「北朝鮮」に対する批判だと言うのが話をはぐらかしていますが、それはさておき、「安倍政権の暴政は、まるで北朝鮮のようだ」というのは、朝鮮の体制を批判するものではなく、安倍政権という「日本の内なる悪」を朝鮮に背負わせて悪魔視する、いわば「『北朝鮮』悪魔視」です。

このような「『北朝鮮』悪魔視」は、朝鮮が好きか嫌いか、あるいは朝鮮の金正恩政権を支持するか否かといった問題ではありません。それは、安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道といった「日本の内なる悪」と日本国民がどう向き合うかという、日本国民自身の問題です。そして、「『北朝鮮』悪魔視」をやめるべきなのは、「『北朝鮮』悪魔視」が日本社会の在日コリアン差別やヘイトクライムを助長するからです(「『北朝鮮』悪魔視」が日本社会の在日コリアン差別を助長する例としては、日本政府による朝鮮学校差別*1や、三浦瑠麗氏の「スリーパーセル」発言*2、あるいは右翼による朝鮮総連銃撃事件*3を挙げれば十分でしょう。)。

もちろん、朝鮮の金正恩政権にさまざまな問題があることは、私も否定しません。しかし、だからといって、なぜ朝鮮が「日本の内なる悪」を背負わされなければならないのでしょうか。日本国民は、いったい何の権利があって朝鮮に「日本の内なる悪」を背負わせるのでしょうか。そのように「日本の内なる悪」を日本国民が平気で朝鮮に背負わせるのは、やはり朝鮮を蔑視しているからでしょう。つまり、「まるで北朝鮮のようだ」というのは、批判ではなく蔑視にほかならないということです。少なくとも朝鮮蔑視を克服しないかぎり、日本国民に朝鮮の金正恩政権を批判する資格はありません。

安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道を批判することは、民族差別を助長する「『北朝鮮』悪魔視」を用いなくてもできるはずです。それとも、リベラル派は、民族差別を助長する「『北朝鮮』悪魔視」を用いなければ安倍政権の暴政やNHKの翼賛的な報道を批判することができないのでしょうか。しかし、それではリベラル派が批判する「アベ」や「ネトウヨ」と何ら変わりません。それで、もし安倍政権を倒すことができたとしても、本当の意味で「アベ政治」を終わらせることはできないでしょう。本当に「アベ政治」を終わらせるのであれば、「日本の内なる悪」を朝鮮に背負わせるのではなく、それと真摯に向き合うべきです。安倍政権の暴政は、それこそ「戦後日本」が「日本の内なる悪」と真摯に向き合わずにやり過ごしてきた"結果″なのですから。