葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「徴用工」は、日帝による植民地支配の問題である。

「徴用工問題」について、「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題なのに、どうして日本政府がこれに介入するのか」といった声がよく聞かれます。たしかに、先般の徴用工訴訟は国家間の紛争ではなく、日本企業とその被害者の間の紛争という民事紛争であり、日本政府がこれに介入するのはおかしな話です。しかし、だからといって「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題」と捉えてしまうと、問題の本質を見失いかねません。

「徴用工問題」問題の本質は、「日帝による植民地支配体制下における、日本企業による被植民者の搾取」だという点にあります。つまり、形としては日本企業とその被害者の間の紛争という民事紛争であっても、それは日帝による植民地支配と「切っても切れない関係」にあるということです。実は、日本政府が日本企業とその被害者の間の紛争という民事紛争に執拗に介入せんとするのも、それが日帝による植民地支配と「切っても切れない関係」にあるからなのです。

日本製鉄(現在の新日鉄住金)や三菱重工業は、単なる日本企業として朝鮮人労働者を搾取したのではありません。日帝による植民地支配体制に組み込まれた日本企業として朝鮮人労働者を搾取したのです。つまり、これらの日本企業は、日帝による植民地支配体制下であるからこそ、被植民者である朝鮮人を強制労働によって搾取することができたのです。

日帝による植民地支配体制下ゆえにできた強制労働が不法であるということは、すなわち日帝による植民地支配が不法であることを意味します。これこそ、日本政府が民事紛争である徴用工訴訟に執拗に介入せんとする「理由」です。それというのも、日帝による植民地支配が不法であることを前提とする韓国大法院判決を受容することは、日帝による植民地支配が不法であることを認めることになるからです。日帝による植民地支配の正当化に腐心する日本政府としては、それはなんとしても避けたいのでしょう。

日帝による植民地支配の不法性については、「当時の価値観からすれば合法であり、歴史を現在の価値観で裁くのはナンセンスであるのだから、何の問題もない」という人もいるでしょう。しかし、その「当時の価値観」というものは、帝国主義列強が暴力で正当化した価値観にほかならず、その「帝国主義列強が暴力で正当化した」ことこそが問われているのですから、「当時の価値観からすれば合法」などというのは、日帝による植民地支配を正当化する理由にはなりません。それに、日帝による植民地支配の不法性を問うことは、「歴史を現在の価値観で裁く」ことなどではなく、日本政府が、あるいはあなたや私が、植民地支配という、人間の自由と尊厳を踏みにじる暴力的な権力構造に対して、まさに今どのような態度をとるか、ということなのです。つまり、現在の価値観で裁かれるのは「歴史」ではなく、現在の日本政府、あるいはあなたや私の、植民地支配という暴力構造に対する態度なのです。

以上のことから、「徴用工問題」が「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題」ではないことや、日本政府が民事紛争である「徴用工訴訟」に執拗に介入せんとする理由が、おわかりいただけたでしょうか。「徴用工問題」を「単なる悪徳企業とそれに搾取された労働者の問題」と捉えてしまうことは、どうして日本政府が民事紛争である「徴用工訴訟」に執拗に介入せんとするのかについての理解を困難ならしめるだけでなく、問題を矮小化し、日帝による植民地支配という「加害の歴史」を忘却させる危うさがあります。

「徴用工」は、あくまでも日帝による植民地支配の問題です。だからこそ、日帝による植民地支配の問題を解決しなければ、「徴用工」の問題を解決することは決してできないのです。