葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

はたして「自衛隊」は「『国民』の命を守るための組織」なのだろうか。

共産「有事に自衛隊活用」 現実的な9条護憲論をアピール:東京新聞 TOKYO Web

 

特にコンミューンは、「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」という証明を提供した。

 

マルクス・エンゲルス共産党宣言』一八七二年ドイツ語版への序文*1

自衛隊」を「『国民』の命を守るための組織」だと信じて疑わない人は、「左右」を問わず少なくないようです。しかし、はたして「自衛隊」は、本当に「『国民』の命を守るための組織」なのでしょうか。

思うに、「自衛隊」創設の歴史的経緯や、憲法9条があるにもかかわらず戦後の日本がアメリカの戦争に加担してきたことに鑑みれば、「自衛隊」は「『国民』の命を守るための組織」ではなく、「国体」(=天皇制国家であること)と「アジア・太平洋におけるアメリカの覇権」を守るための暴力装置です。それゆえ「自衛隊」は、「国体」と「アジア・太平洋におけるアメリカの覇権」を守るためならば「『国民』の命」をも躊躇なく犠牲にするでしょう。そのような「自衛隊」が、「国民」ではない人民の命を平気で犠牲にするであろうことは、言うまでもありません。

そもそも、「『国民』の命を守る」という考えは危険です。なぜなら、「『国民』の命を守る」ということは、つまるところ「『国民』の命」でなければ守らなくてよいということだからです。それゆえ、仮に「自衛隊」が「『国民』の命を守るための組織」だとしても、「敵」とみなす人民の命は「自衛隊が守るべき『国民』の命ではない」として、その命を躊躇なく奪うでしょう。「『国民』の命を守る」という考えに何の違和感も覚えない人は、「日本国民」を貫く「排除と同化の論理」*2に対して、あまりにも無頓着すぎます。

もちろん、憲法9条は独立国家に固有の自衛権までも否定するものではありません。しかし、そのことと、「自衛隊」が憲法9条の許容する「自衛のための必要最小限度の実力組織」であるか否かとは別の話です。つまり、憲法9条の許容する「自衛のための必要最小限度の実力組織」が必要だとしても、「自衛隊」が憲法9条に違反する軍隊であるならば(私が思うに、いまや世界第5位(2022年現在)*3の強大な軍事力を持つ軍事大国である日本の「自衛隊」は、憲法9条に違反するれっきとした軍隊です。)「自衛隊」は解体されなければならないのです。

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「戦後日本」は「歴史の終わり」ではない。

リベラル派の中には、「戦後民主主義や戦後平和主義を保守する我々こそが『真の保守』である」と言う人がいます。

「真の保守」云々はさておき、左翼である私は、「戦後民主主義や戦後平和主義を保守する」という考えには賛同できません。

もちろん、私も、戦後民主主義や戦後平和主義の全てを否定するつもりはありません。しかし、戦後民主主義や戦後平和主義は、決して完全無欠のものではありません。すなわち、戦後民主主義や戦後平和主義は、民主主義とはおよそ相容れない天皇制の存続や平和主義をないがしろにするアメリカの戦争への加担といった矛盾を抱えています。こうした矛盾を看過して「戦後民主主義や戦後平和主義を保守する」ことは、真の民主主義や平和主義の実現の妨げにしかなりません。つまり、戦後民主主義や戦後平和主義は、「保守」すべきものではなく、真の民主主義や平和主義を実現するために乗り越えるべきものなのです。それとも、もしや「真の保守」を標榜するリベラル派の人たちは、民主主義とはおよそ相容れない天皇制の存続や平和主義をないがしろにしたアメリカの戦争への加担といった矛盾を温存したいのでしょうか。

戦後民主主義や戦後平和主義を「保守」したいリベラル派は、戦後民主主義や戦後平和主義をあたかも「絶対知」のように捉えているのかもしれません。しかし、戦後民主主義や戦後平和主義は「絶対知」のようなものでは決してなく、そして、「戦後日本」は「歴史の終わり」では決してありません。流れない水は腐ります。つまり、戦後民主主義や戦後平和主義がどんなに素晴らしいものであっても、真の民主主義や平和主義へと向かう流れをせき止めてしまえば、いずれは腐ってしまうのです。

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憲法9条と自衛戦争

日本国憲法
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

護憲派の中には、「憲法9条では日本を守れない」という改憲派の主張に対する反論として、「憲法9条自衛戦争を放棄していない」と言う人も少なからず見受けられます。

たしかに、「憲法9条によって放棄されたのは侵略戦争であり、自衛戦争は放棄されていない」と考えるのが政府見解です*1。しかし、「自衛戦争は放棄されていない」という結論は、絶対的なものではありません。すなわち、9条1項で放棄されているのは侵略戦争のみで自衛戦争は放棄されていないと解しても、戦力保持を禁止し、交戦権も否認している2項によって、結果的に自衛戦争を含めた一切の戦争が放棄されることになる(いわゆる2項全面放棄説*2)と解することもできます。つまり、「憲法9条自衛戦争を放棄していない」というのは絶対的真理ではないのです。

もっとも、憲法9条自衛戦争を含めた一切の戦争を放棄しているとする見解に立ったとしても、憲法9条は独立国家に固有の自衛権までも否定するものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を行使することは憲法上許されると解することは可能です(そうだとしても、現在の日本軍「自衛隊」が「自衛のための必要最小限度の実力組織」であるといえるかは甚だ疑問です。)。これについては、「結論として自衛のための必要最小限度の実力行使を認めるのであれば、回りくどい解釈はせずに自衛戦争を肯定すればよいだろう」と思う人もいるかもしれません。たしかに、実際に自衛戦争自衛権の行使を区別することは難しいかもしれません。しかし、日本国憲法が掲げる非戦・非軍事の徹底した恒久平和主義の理念に鑑みれば、やはり自衛戦争は当然にできると考えるべきではなく、戦争は一切許されず、ただ自衛のための必要最小限度の実力を行使することだけが許されると考えるべきです。

しばしば侵略戦争が「集団的自衛権」を口実として行われる*3ことに鑑みれば、たとえ改憲派に反論するためであっても、護憲派が安易に自衛戦争を肯定してしまうのは危険です。恒久平和を希求する私たち世界人民は、憲法解釈論を超えた価値判断として、たとえ被侵略国の侵略国に対する自衛権の行使であっても、それはあくまでも「必要悪」であると考えるべきです。

*1:戦争放棄とは - コトバンク

*2:“(9条1項で放棄されているのは侵略戦争であり、自衛戦争は放棄されていないと解する)甲説をとっても、2項について、「前項の目的を達するため」に言う「前項の目的」とは、戦争を放棄するに至った動機を一般的に指すにとどまると解し、2項では、一切の戦力の保持が禁止され、交戦権も否認されていると解釈すれば、自衛のための戦争を行うことはできず、結局すべての戦争が禁止されていることになるので、(およそ戦争はすべて国際紛争を解決する手段としてなされるのであるから、1項において自衛戦争を含めてすべての戦争が放棄されていると解する)乙説と結論は異ならなくなる。”(芦部信喜憲法』)

*3:「集団的自衛権」を口実にした侵略とは?

ウクライナ情勢に乗じた日本の軍備拡張を決して許してはならない。

「日米同盟の抑止力、議論を」 首相、中国など念頭に警戒感:朝日新聞デジタル

www.asahi.com

われわれ日本の人民は、平和を希求する世界人民の一員として、もちろんロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻を決して許してはなりません。それと同時に、ウクライナ情勢に乗じた日本の軍備拡張を決して許してはなりません。

日本政府は、ウクライナ情勢に乗じて「外国の脅威」を煽り、それに煽られた日本国民の多くが、ロシアに侵攻されたウクライナのように日本が外国から侵攻されることを憂慮しています。しかし、そのような日本国民の多くは、大きな勘違いをしています。

もしかすると、日本国民の多くは「日本には憲法9条があるのだから、日本が他国へ軍事侵攻することなどあるはずがない」と思っているかもしれません。たしかに、戦後の日本は、憲法9条のおかげで自らの手を血で汚さずに済んできました。しかし、戦後の日本が、憲法9条があるにもかかわらず朝鮮戦争ベトナム戦争といった「アメリカの戦争」に加担し、暴利をむさぼってきたのも真実です。また、記憶に新しいところでは、日本は今般のロシアによるウクライナ侵攻と同様に明白な国際法違反であるアメリカのイラク侵攻(2003年*1)を支持し*2、日本軍「自衛隊」をイラクに派兵してこれに加担しました*3。そして、いまや日本は、憲法9条があるにもかかわらず世界第5位(2022年現在)*4の強大な軍事力を持つ軍事大国になりました。さらに、世界最強の軍事力を誇る軍事超大国アメリ*5とともに、対中国戦争の準備を現在進行形で進めています。つまり、いまだ軍国主義を克服できない日本は、依然として「侵攻する側」なのです。

日本国民は、日本が外国から侵攻されることを憂慮する前に、まずは日本がアメリカとともに他国へ侵攻することを憂慮すべきです。すなわち、日本国民が本当に警戒すべきなのは、日本の軍国主義ウクライナ情勢に乗じて増長することなのです。繰り返し言いますが、いまだ軍国主義を克服できない日本は、依然として「侵攻する側」なのですから。

日本を変えなければ「日韓関係」は変わらない

岸田首相、日韓関係改善に向け「次期大統領のリーダーシップに期待」 : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン

www.yomiuri.co.jp

日本の政府や国民が韓国の次期政権に期待する「日韓関係の改善」とは、いったいいったいどのようなものでしょうか。

韓国の次期政権に「日韓関係の改善」を期待する日本国民の多くは、おそらく「日韓関係が悪いのは、韓国が慰安婦問題や徴用工問題といった歴史問題にいつまでも拘泥するからだ」と思っていることでしょう。しかし、それは傲慢な勘違いです。

日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題は、日韓の政治的な対立の問題ではなく、日帝による朝鮮植民地支配下での人権侵害という人権の問題です。つまり、それは他ならぬ日本が責任をもって解決しなければならない問題なのです。そして、日本政府が日本軍性奴隷制による人権侵害の法的責任を認めて謝罪し、日本の戦犯企業が徴用工訴訟*1の韓国大法院判決を誠実に履行し謝罪することが、日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題の真の解決を実現するための最善かつ唯一の方法です。

このように、日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題は他ならぬ日本の問題ですから、日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題によって「日韓関係」がぎくしゃくしているとしても、それについて責められるべきは、果たすべき責任を果たさない日本の政府や戦犯企業です。そして、日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題の真の解決を妨げているのは、今もなお継続する日本の植民地主義ですから、日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題を解決することで日本と韓国の関係を改善するためには、何よりもまず日本が植民地主義を克服しなければなりません。つまり、植民地主義が染み付いた日本を変えなければ「日韓関係」は決して変わらないのです。日本国民が本当に日本と韓国の関係改善を望むのであれば、日本国民は韓国の次期政権に「日韓関係の改善」を期待するのではなく、主権者として植民地主義が染み付いた日本を変えなければなりません。

さて、そもそも日本政府が改善を期待する「日韓関係」とは、単なる日本と韓国の両国関係ではなく、米・日・韓三角軍事同盟を支える「日韓65年体制」に基づく新植民地主義的な関係です。そして、それは日本軍「慰安婦」問題や徴用工問題といった歴史問題に蓋をすることで維持されるもの、すなわち日本軍性奴隷制日帝強制動員の被害者の犠牲の上に成り立つものです*2。韓国の民主化は、そのような「日韓65年体制」に綻びをもたらしました。つまり、日本政府が韓国の次期政権に期待する「日韓関係の改善」とは、「日韓65年体制」という新植民地主義的な関係の修復のことなのです。しかし、先に述べたように、「日韓65年体制」は、日本軍性奴隷制日帝強制動員の被害者の犠牲の上に成り立つものです。そのような「日韓65年体制」に基づく関係を修復することが、はたして日本と韓国の真の友好関係に資するものであるといえるでしょうか。

*1:「徴用工」訴訟 新日鉄住金に損害賠償命じる判決 韓国最高裁 | 注目記事 | NHK政治マガジン

*2:“「六五年体制」とは、日本(佐藤栄作政権)と韓国(朴正煕政権)が調印した韓日基本条約や四つの協定にもとづいた、現在の韓日関係の出発点となる体制を指す。第一には米国を頂点とする垂直的系列化を基盤とする韓米日擬似三角同盟体制(日米同盟と韓米同盟)である。(…)第二にはこの同盟体制を維持し、その安定性を高めるため歴史問題の噴出を物理的暴力で抑圧するか、コントロール可能な領域におく。”(権赫泰『平和なき「平和主義」』)

honto.jp

「戦後の日本はまごうことなき『平和国家』である」という誤解が平和主義の真の実現を妨げている

戦後の日本はまごうことなき「平和国家」である、日本国民の多くはそう信じて疑わないでしょう。

たしかに、戦後の日本は「平和憲法を持つ国」であり、憲法9条のおかげで自らの手を血で汚さずに済んできました。しかし、戦後の日本が、憲法9条があるにもかかわらず朝鮮戦争ベトナム戦争といった「アメリカの戦争」に加担し、暴利をむさぼってきたのもまた真実です。そして、いまや日本は、憲法9条があるにもかかわらず世界第5位(2022年現在)*1の強大な軍事力を持つ軍事大国になりました。さらに、世界最強の軍事力を誇る軍事超大国アメリ*2とともに、対中国戦争の準備を現在進行形で進めています*3。このような戦後の日本は、はたして本当に日本国憲法が掲げる平和主義の理念を体現した「平和国家」であるといえるでしょうか。

もちろん、日本国憲法が掲げる平和主義の理念はかけがえのないものですし、これは絶対に堅持しなければなりません。しかし、日本国憲法が掲げる平和主義の理念と戦後の日本の現実に乖離が生じていることを看過してしまっては、いつまでたっても日本国憲法が掲げる平和主義の理念を真に実現することはできません。つまり、日本国憲法が掲げる平和主義の理念を真に実現するためには、何よりもまず平和憲法をないがしろにしてきた日本政府に平和憲法を遵守させることが必要なのです。

先に述べたような日本国憲法が掲げる平和主義の理念と戦後の日本の現実との乖離に鑑みれば、「戦後の日本はまごうことなき『平和国家』である」というのは誤解だと言わざるを得ません。そして、日本国民の多くがこのような誤解をし続ける限り、日本政府に平和憲法を遵守させようとするモチベーションが生じることはありませんから、日本が日本国憲法が掲げる平和主義の理念を体現した真の平和国家になることはないでしょう。つまり、日本国民が「戦後の日本はまごうことなき『平和国家』である」という誤解を改めて、日本国憲法が掲げる平和主義の理念と戦後の日本の現実との乖離を正しく認識する(もちろん、それは戦後の日本の現実に合わせて平和憲法を捻じ曲げるためではありません。)ことは、日本を日本国憲法が掲げる平和主義の理念を体現した真の平和国家にするための第一歩なのです。

日本における人種差別は、他ならぬ日本社会の「悪」である。

ひぼう中傷や差別 在日ロシア人に広がる不安|NHK 関西のニュース

 

もちろん、ロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻は許されざる暴挙です。だからといって、日本社会のマジョリティたる日本人がウクライナ情勢に乗じて在日ロシア人を差別するのは言語道断です。私は、日本社会のマジョリティとして、ウクライナ情勢に乗じた在日ロシア人差別を断じて許しません。

さて、在日ロシア人差別を非難する日本人の中には、「ロシア人が悪いのではなく、悪いのはただ一人プーチンだけだ。だから在日ロシア人差別をやめよう」と言う人がいます。「在日ロシア人差別をやめよう」という点には、もちろん私も異論はありません。ただ、「ロシア人が悪いのではなく、悪いのはただ一人プーチンだけだ。だから……」という点に、私はどうしても違和感を覚えてしまいます。

たしかに、ロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻はプーチン氏の「悪」であって、ロシア人が悪いのではありません。しかし、日本社会のマジョリティたる日本人がウクライナ情勢に乗じて在日ロシア人を差別することは、他ならぬ日本社会の「悪」であって、プーチン氏の「悪」ではありません。つまり、「ロシア人が悪いのではなく、悪いのはただ一人プーチンだけだ」からではなく、日本における人種差別が他ならぬ日本社会の「悪」だから、日本人は在日ロシア人差別をやめなければならないのです。

思うに、今般のウクライナ情勢に乗じた在日ロシア人差別の元凶は、ロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻ではなく、日本社会にはびこる排外主義と、日本人がかねてより抱いていたロシア蔑視観です。ロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻は、それらを刺激したに過ぎません。つまり、いくらロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻というプーチン氏の「悪」を非難したところで(もちろん、ロシア・プーチン政権によるウクライナ侵攻というプーチン氏の「悪」を非難することは、プーチン氏にこれ以上の侵攻をやめさせるためには必要ですが)、日本社会のマジョリティたる日本人が日本社会にはびこる排外主義や日本人のロシア蔑視観という日本社会の「悪」を克服しなければ、ウクライナ情勢に乗じた在日ロシア人差別の問題は決して解決しないのです。