葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

日本の植民地主義を棚に上げて韓国の「親日残滓の清算」をあげつらう、朝日新聞・箱田哲也氏の傲慢。

(社説余滴)「親日」の呪縛を解けるか 箱田哲也:朝日新聞デジタル

 

「日本で『親日清算』と聞けば、責められているような印象を招きかねないが、内政問題として親日をとらえる文大統領は、なぜ日本がかくも反応するのか理解できていないふしがある」と言う朝日新聞国際社説担当の箱田哲也氏ですが、そんな箱田氏こそ、なぜ文在寅政権が「親日残滓の清算」を課題としている*1のか理解できていないふしがあります。箱田氏が言うように、文在寅大統領が内政問題として「親日」をとらえているとすれば、それは日帝被害者の救済において「親日」が韓国の行政や司法を歪めてしまう*2というのもあるでしょうが、なによりも「親日」が韓国自身の克服すべき植民地主義だからです。

「過去の清算を現在の政治に結びつけ、何かにつけ野党側を親日派呼ばわりする」と言って文在寅政権を非難する箱田氏は、どうやら「親日残滓の清算」を過去の問題でしかないと思っているようです。しかし、それはとんだ誤解です。「親日」は、いまなお継続する植民地主義の問題です。すなわち、「親日残滓」は、光復後のコリア独立を不完全なものにし、「日韓65年体制」という新植民地主義体制を生み出しました。先般の日本による韓国への経済侵略*3も、背景にはこの「日韓65年体制」という非対称な新植民地主義体制があるといえます。つまり、文在寅政権が課題としている「親日残滓の清算」は、単に過去の清算であるにとどまらず、いまなお継続する日韓の植民地主義体制を克服しようとするものなのです。したがって、「親日残滓の清算」が現在の政治に結びつくのは至極当然であるといえます。

箱田氏のような「戦後ニッポン」の植民地主義者たちが文在寅大統領を目の敵にするのも、文在寅政権がいまなお継続する日韓の植民地主義体制の克服を志向する政権だからでしょう。朝日新聞は、2019年1月11日朝刊の社説で「日韓は、1965年の基本条約や請求権協定を礎石として、信頼と協力を深めてきた歴史を忘れてはならない」と主張していますが*4、「戦後日本」の植民地主義者たちが守りたい「日韓関係」とは、まさにこの1965年の基本条約や請求権協定を礎石とする「日韓65年体制」、すなわち日本が韓国を新植民地主義的に支配する関係なのです。

韓国の「親日残滓の清算」をあげつらう箱田氏は、どうやら「親日残滓の清算」を他人事のように考えているようです。しかし、前述したように「親日」がいまなお継続する植民地主義の問題であることに鑑みれば、その克服は、他ならぬ日本自身の問題です。それなのに、箱田氏が日本の植民地主義を棚に上げて韓国の「親日残滓の清算」をあげつらうというのは、植民地主義者の傲慢だと言わざるを得ません。数年前の「日韓フォーラム」で韓国の学生が訴えたという「過去の背信者は別の言葉に変え、『親日』を本来の意味で使えるよう解放できないか」という意見には、私も賛成です。しかし、「親日」を本来の意味で使えなくしてしまっているのは、他ならぬ日本の植民地主義なのです。

この植民地主義者のまなざしで書かれた傲慢なコラムは、次の言葉で締めくくられています。「禁句を避け、今はわざわざ『知日派』と表現される韓国で、『私は親日派』と堂々と言える日が来るだろうか。」しかし、そんなことよりも、日本人が「日本は植民地主義を克服した」と堂々と言える日が来るのでしょうか。

ベルリン「少女像」継続設置決議が意味すること

news.tv-asahi.co.jp

 

加藤官房長官の発言を無批判に報じるニュースに接した日本国民の中には、ベルリン・ミッテ区議会の当該決議が日本政府の立場と相容れないことが問題であると考える人が少なからずいると思います。しかし、ベルリン・ミッテ区の当該決議が日本政府の立場と相容れないことが問題であると考えるのは大間違いです。

ベルリン・ミッテ区議会の当該決議が日本政府の立場と相容れないことが問題であると考える人は、日本政府の立場が絶対に正しいということを前提としているのでしょう。しかし、それは傲慢な勘違いです。

ベルリン・ミッテ区議会の当該決議は、決してベルリン・ミッテ区議会の日本政府の立場に対する無理解ゆえの結果ではありません。それは、日本軍による戦時性暴力という「負の歴史」を忘却しようとする日本政府の立場が「女性の尊厳と人権」という普遍的価値と相容れないがゆえの結果です。つまり、「女性の尊厳と人権」という普遍的価値に鑑みれば、ベルリン・ミッテ区議会の当該決議が日本政府の立場と相容れないことは、何ら問題視されるべきものではありません。むしろ本当に問題視すべきなのは、日本軍による戦時性暴力という「負の歴史」を忘却しようとする日本政府の立場が「女性の尊厳と人権」という普遍的価値と相容れないことなのです。

加藤官房長官が言う「(日本政府の)これまでの取り組み」というのは、実際のところドイツ政府に撤去を求めるなど執拗に圧力をかけるという傲慢で卑劣なものですが*1、今般の決議によって、そのような傲慢で卑劣な手は「女性の尊厳と人権」という普遍的価値を共有するドイツの市民社会には通用しないということが明らかになりました。「我が国の立場について説明を行い、像の速やかな撤去を求めていきたい」という加藤官房長官の発言に鑑みると、それでもなお日本政府はドイツ政府やベルリン市当局に対して執拗に圧力をかけ続けるのでしょうが、それは実に愚かな行為です。

日本国民は、今般の決議に対して「反日だ」などと反発するのではなく、今般の決議が意味することをよく考えてみるべきです。そうすれば、今般の決議が日本国民に問うていることがよく分かるはずです。つまり、今般の決議が日本国民に問うているのは、単に今般の決議について賛成かどうかではなく、日本国民が「女性の尊厳と人権」という普遍的価値を共有するかどうかなのです。

 

japan.hani.co.kr

 

差別を「生き抜く本能だ」と言う暴論

「犬や猫にだって差別がある」と言う研究者 それは生き抜く本能だから:朝日新聞GLOBE+

 

上記リンク先の記事ですが、全体としての論調は差別に肯定的なものではありません。しかし、犬や猫もする差別は生き抜く本能であり、人種差別など歴史的・文化的な刷り込みによる差別も本能による差別とは程度の違いに過ぎない、と考えるのは、いささか暴論であると思います。それは、あたかも「犬や猫もする性行為は生き抜く本能であり、性暴力も本能による性行為とは程度の違いに過ぎない」と言うようなものです。

人種差別のような「歴史的、文化的な」差別の基底として本能レベルでの差別があるというのは、たしかにその通りなのでしょう。私も、その自然科学的知見を否定するつもりはありません。しかし、私が思うに、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別は、本能レベルでの差別とは「程度の違い」にとどまらず、質的に異なるものです。なぜなら、人種差別などが「歴史的、文化的な」ものであるならば、それは人間によって作られた文明社会が生み出したものであるからです。たとえ差別が生物の生き抜く本能であったとしても、「人間」が存在しなければ歴史も文化もないのですから、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別もないはずです。人種差別のような「歴史的、文化的な」差別が「人間存在」の産物であることを看過して、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別を本能的レベルでの差別と「程度の違い」に過ぎないと考えることは、「人間存在」を否定するものだといえます。

おそらく、斎藤教授や朝日記者の意図とは裏腹に、レイシストたちは「差別は生き抜く本能だ」という自然科学的知見を人種差別の正当化に悪用するでしょう。しかし、前述のとおり人種差別のような「歴史的、文化的な」差別が本能レベルでの差別とは質的に異なることを考えれば、「差別は生き抜く本能だ」という自然科学的知見によって人種差別が正当化されないことは容易に分かるはずです。

たとえ本能レベルでの差別をなくすことができなくても、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別といった理性レベルでの差別をなくすことはできます。すなわち、たとえ差別感情をなくすことができなくても、差別構造をなくすことはできるのです(もっとも、差別構造があるからこそ生まれる差別感情も、決して少なくないでしょう*1)。そして、人種差別のような「歴史的、文化的な」差別が「文明」という人間の理性の力で作られたものであるならば、私たち人間は、それを「人文知」という人間の理性の力で克服することができるのです。

日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。

 

梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史*2

*1:" 排泄物はその悪臭のために私たちの胸をむかつかせるのだ、と私たちは考える。しかし、排泄物がもともと私たちの嫌悪の対象となっていなかったら、果たしてそれは悪臭を放っていたろうか。"(G.バタイユ『エロティシズム』)

*2:

www.heibonsha.co.jp

すでに日本は「いつでも戦争ができる国」である。

護憲派の中には、「9条改憲を許したら、日本は『戦争ができる国』になってしまう」と言う人が少なくありません。

もちろん、私も「9条改憲」には断固として反対します。しかし、「9条改憲を許したら、日本は『戦争ができる国』になってしまう」という認識には、どうしても違和感を覚えます。

「9条改憲を許したら、日本は『戦争ができる国』になってしまう」という認識に違和感を覚えるといっても、決して「9条改憲を許しても、日本は『戦争ができる国』にならない」と言いたいのではありません。私が言いたいのは、「9条改憲」を許さなくても、すでに日本は(「アメリカと一緒に」という条件付きではあるものの)「いつでも戦争ができる国」である、ということです。

「9条改憲を許したら、日本は『戦争ができる国』になってしまう」と言う護憲派の皆さんは、まさか戦争法*1の強行成立を忘れてしまったのでしょうか。戦争法の成立によって改憲を経ずとも日本が「戦争ができる国」になってしまうからこそ、護憲派の皆さんはあの時*2戦争法の強行採決に反対の声を上げたはずです。それなのに、どうして戦争法が制定された今もなお「9条がある日本は『戦争をしない国』である」と無邪気に信じていられるのでしょうか。事実、戦争法の制定によって「いつでも戦争ができる国」となった日本は、着々と「来るべき戦争遂行の準備」を進めています*3護憲派の中には誤解している人も少なからずいますが、日本は「アメリカの戦争に巻き込まれる」のではありません。日本は、「同盟国」としてアメリカの戦争に主体的に参加するのです。)。「9条がある日本は『戦争をしない国』である」と信じて疑わない護憲派は、日本が9条の存在にもかかわらず、これまでアメリカの戦争に加担し、そしてもはや「いつでも戦争ができる国」となった現実をしっかりと認識すべきです。それは、9条に体現された平和主義の真の実現に向けた第一歩です。

憲法9条を変えなくてもすでに日本は「戦争ができる国」だからといって、9条改憲を許してもよいということはもちろんありません。すでに日本は「戦争ができる国」だから9条改憲を許してもよいというのは、それこそ「改憲勢力」の思う壺です。ただ、「9条改憲」の是非の前に問うべきことがあります。それは、改憲を経ずして憲法9条が無効化されてしまっているという憲法破壊の現状です。立憲主義と平和主義の破壊を取り返しのつかないものにしてしまう「9条改憲」を許さないことはもちろん大切ですが、それだけにとらわれて今まさに進められている立憲主義と平和主義の破壊を看過しまっては元も子もありません。

なぜヘイトスピーチやヘイトクライムが後を絶たないのか。

「不法移民の―」 3公園で新たに差別落書き発見 川崎 | カナロコ by 神奈川新聞

 

本年7月1日にヘイトスピーチに罰金刑を科す全国初の条例が施行された川崎市で、在日コリアンを標的としたヘイトクライム(差別に基づく犯罪)が相次いで発生しています。もしかすると、日本人の中には「落書きを『ヘイトクライム』だと呼ぶのは大げさだ」と言う人がいるかもしれません。しかし、在日コリアンをおとしめる差別落書きは「いたずら」では済まされない、れっきとした犯罪行為です。このような卑劣な犯罪行為を、私は決して許しません。

ヘイトクライム以外にも、川崎市では条例施行後も排外主義団体による卑劣なヘイトデモが繰り返し行われています*1。警察の過剰警備は、まるでやりたい放題の差別主義者たちを守っているかのようです。

それにしても、なぜ罰則付きの厳しい条例のある川崎市で、卑劣なヘイトスピーチヘイトクライムが後を絶たないのでしょうか。これに関しては、条例の運用に不十分な点があることを指摘する声が上がっています*2

たしかに、ここまで民族差別に蝕まれてしまった日本社会では、川崎市のような罰則付きの差別禁止条例はもはや必要不可欠であり、これが適切に運用されればヘイトスピーチヘイトクライムの抑止効果が期待できるでしょう。しかし、それはあくまでも「対症療法」です。例えば、ヘイトデモで垂れ流されるヘイトスピーチの内容を見ると、その多くが在日コリアンの国外追放を訴えるものであったり、朝鮮学校を差別するものであったり、あるいは日本軍「慰安婦」被害者を誹謗中傷するものであったりするものです。また、排外主義団体による「拉致問題」の悪用*3も、日本政府やマスメディアが煽り立てる「『北朝鮮』悪魔視」がそれを許容しているといえます。そして、毎日のようにマスメディアが韓国や朝鮮に対する敵意と蔑視を煽り立てることで、日本社会の支配的価値観と言っても過言ではない、民族差別を「是」とする価値観が強化されています。つまり、日本政府の差別政策や歴史修正主義、そしてマスメディアが煽り立てる韓国や朝鮮に対する敵意と蔑視が、ヘイトスピーチヘイトクライムを誘発、助長するのです。

昨今の差し迫った状況に鑑みれば、刑罰法規でヘイトスピーチヘイトクライムを禁圧する必要があることに、もちろん異存はありません。しかし、ヘイトスピーチヘイトクライムを生み出す日本社会の差別構造と、それを是とする日本社会の支配的価値観を変えなければ、刑罰法規でヘイトスピーチヘイトクライムを禁圧したところで、「イタチごっこ」にしかなりません。刑罰法規で「対症療法」を施しながらも、日本社会の差別構造とそれを支える価値観を克服する「根本治療」に取り組むことが肝要です。

どうやら、ヘイトスピーチヘイトクライムを「ごく一部の差別主義者」だけの問題だと思っている人は少なくないようです。たしかに、街頭でヘイトスピーチを垂れ流したり、実際にヘイトクライムに手を染めるのは「ごく一部の差別主義者」かもしれません。しかし、ヘイトスピーチヘイトクライムの根底にある日本社会の差別構造とそれを支える「朝鮮蔑視観」は、日本社会のマジョリティ一人ひとりにとって決して無関係ではないのです。残念ながら、ヘイトスピーチヘイトクライムに眉をひそめながらも、日本社会の差別構造とそれを支える「朝鮮蔑視観」にはまるで無頓着なマジョリティは皆無ではありません。

罰則付き条例の第一義は、もちろんヘイトスピーチの禁圧でしょう。しかし、それにとどまらず、ヘイトスピーチが犯罪行為という許されざる悪であることを明確にした点に、私は大きな意義を見出します。近代以降、民族差別を「是」とする価値観が支配したきた日本社会の差別構造を変えるためには、民族差別が許されざる悪であることを明確にすることで、民族差別を「是」とする支配的価値観をこわすことが必要なのです。

「容疑者」という言葉は、犯罪者の烙印ではない。

伊藤詩織さん、書類送検…元TBS記者が虚偽告訴などで刑事告訴 - 弁護士ドットコム

 

元TBS記者に性的暴行を受けたと訴えた民事裁判で勝訴した*1ジャーナリストの伊藤詩織さんが、元TBS記者に虚偽告訴などで刑事告訴され(腹いせとしか思えませんが……)書類送検されたことで、ここぞとばかりにネット右翼たちが伊藤さんを「容疑者」呼ばわりして誹謗中傷しています。

ネット右翼たちは、伊藤さんを「容疑者」呼ばわりすることで、伊藤さんがあたかも犯罪者であるかのような印象を世間に広めたいのでしょう。しかし、彼らは大きな勘違いをしています。すなわち、「容疑者」(法律用語としては「被疑者」)という言葉は、犯罪者の烙印ではないということです。

刑事裁判では、犯罪を行ったと疑われて捜査の対象となった人(被疑者)や刑事裁判を受ける人(被告人)について、裁判で有罪が確定するまでは「罪を犯していない人」として扱わなければなりません。これを無罪推定の原則といいます。無罪推定の原則は、世界人権宣言(11条1項)*2国際人権規約(14条2項)*3に定められている、近代司法の大原則です。

無罪推定の原則に鑑みれば、たとえ書類送検されようと、伊藤さんは犯罪者ではありません(そもそも、虚偽告訴での刑事告訴自体が言いがかりとしか思えませんが……)。しかるに、ネット右翼たちが、伊藤さんを「容疑者」呼ばわりすることで、伊藤さんがあたかも犯罪者であるかのような印象を世間に広めようとするのは、まさに無知の極みです。

もっとも、「容疑者」という言葉を犯罪者の烙印だと誤解しているのは、ネット右翼だけではないかもしれません。「容疑者」が、無罪推定の原則にもかかわらず、あたかも有罪であるかのように社会的に強い非難を浴びせられることからも分かるように、日本社会には「容疑者=犯罪者」という誤解が根強くはびこっています。これに関しては、マスメディアにも責任の一端があると思います。マスメディアは、「容疑者=犯罪者」という誤解を助長しないよう、無罪推定の原則を踏まえた報道に徹するべきです。

差別を乗り越えるべきなのは、日本社会とそのマジョリティである。

「日本人じゃない」と突きつけられた過去――水原希子、自分らしさとの葛藤の先に - Yahoo!ニュース

 

まずはじめにお断りしておきますが、私は、水原さんの経験や考えを否定するつもりは毛頭ありません。私が言いたいのは、差別は差別されるマイノリティが努力して乗り越えるべき問題ではないということです。

差別は、社会の構造的問題です。水原さんが「無理に日本人ぽく振る舞ってた」のも、彼女自身には何一つ非はありません。日本社会の差別構造が、「無理に日本人ぽく振る舞」うことを水原さんに強いたのです。そして、日本社会の差別構造を作り上げ、これを温存しているのは、日本社会のマジョリティです。つまり、本当に差別を乗り越えるべきなのは、「無理に日本人ぽく振る舞」うことを水原さんに強いた日本社会と、そのマジョリティなのです。

水原さんの言葉に触れたマジョリティの中には、「マイノリティは、差別されたと文句を言う前に、水原さんのように自分の心持ちを変える努力をしたらどうだ」と言う人が少なからずいるかもしません。しかし、水原さんの経験や考えを尊重するのはともかく、彼女の経験や考えをマジョリティが「免罪符」にするのは言語道断です。水原さんがつらい思いをした過去を乗り越えたからといって、マジョリティが差別を乗り越えなくてもよいということには決してなりません。

"黒人作家のリチャード・ライトが最近、言っている。「合衆国には、黒人問題など存在しない。あるのは白人問題だ」と。これと同様に、われわれは、反ユダヤ主義は、ユダヤ人の問題ではない、われわれの問題であると言うことが出来よう。"(J-P.サルトルユダヤ人』)

日本社会の差別問題は、日本社会のマジョリティの問題です。つまり、変えるべきはマイノリティの心持ちではなく、マジョリティの意識であり、マジョリティが作り上げた日本社会の差別構造なのです。

“日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。”(梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』)