葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「平和都市ヒロシマ」の放送局は、なぜ過ちを犯したのか。

「ひろしまタイムライン」NHKが謝罪 差別助長と批判:朝日新聞デジタル

 

NHK広島放送局の企画「ひろしまタイムライン」で民族差別を助長する投稿がなされた問題に関して、「平和への意識が高いはずの広島の放送局が、なぜこのような過ちを犯してしまったのか」と思う人は、おそらく少なくないでしょう。しかし、それはNHK広島放送局にとって「ヒロシマ」というものが、つまるところ日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害を忘れるためのものでしかなかったということなのだと思います。

NHK広島放送局がホームページに掲載した釈明文*1によれば、「ひろしまタイムライン」の企画趣旨は「被爆された広島の人々の日記や手記を元にし、SNSで発信することによって、当時の混乱した状況を追体験し、戦争や原爆について、リアリティをもって考えていただく取り組み」とのことですが、その「被爆された広島の人々」とは、実際のところ日本人だけだったのでしょうか。また、問題の「シュンが発信したツイート」に登場する「朝鮮人」が日本に存在するようになったのは、いったい何に起因するのでしょうか。つまり、「ひろしまタイムライン」では、「被爆の記憶を風化させることなく平和の尊さを次世代に継承する」という美名のもとに「日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者である朝鮮人」がきれいに忘れられており、「朝鮮人」は、ただ「不幸な戦争の被害者である日本人」の引き立て役として必要な時にだけ都合よく思い出されるのです。

「日本が犯した侵略戦争や植民地支配の被害者である朝鮮人」がきれいに忘れられているのは、「ひろしまタイムライン」においてだけではありません。NHK広島放送局は、「手記を提供してくれた方」や「プロジェクトに参加している高校生など関係者のみなさん」といった日本人に対しては今般の件について謝罪しています。しかし、問題の「シュンが発信したツイート」が煽動した民族差別の被害者である在日コリアンに対しては謝罪していません。また、「企画の趣旨」を理由に、民族差別を助長する投稿を削除せずそのままにしています。つまり、NHK広島放送局には、今まさに人としての尊厳を傷つけられ、あるいは生命の危険にさらされている在日コリアンの姿がまるで見えていないのです。

今般の問題は、単にNHK広島放送局とその関係者の「意識の問題」で片付けられるようなものではありません。これは、つまるところ「日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害の記憶」の継承を軽視した「戦後平和主義」の問題です。「平和都市ヒロシマ」の放送局が犯した過ちを繰り返さないためにも、私たちは今こそ「日本が犯した侵略戦争や植民地支配による加害の記憶」の継承を軽視した「戦後平和主義」を問い直すべきです。

それとも「ヒロシマ」は、返り血で汚れた日本の身を清め、加害の歴史を忘れるための「戦後平和主義のヤスクニ」なのでしょうか。もしそうなら、それこそ原爆被害者に対する冒涜です。

「アマプラCM問題」の本質は何か。

アマゾンプライム「解約しました」 ツイッターで拡散 きっかけは… - 毎日新聞

 

国際政治学者の三浦瑠麗氏がCMに出演したことをきっかけに起きた「Amazonプライム解約運動」に批判的な人の中には、どうやら「リベラル派は三浦氏のことが嫌いだから、三浦氏のCM起用にケチをつけるのだ」と思っている人が少なくないようです。

たしかに、三浦氏のことが嫌いなリベラル派は少なくないでしょう。しかし、今般の問題は、三浦氏のことが好きか嫌いかの問題ではありません。

三浦氏のCM起用に関しては、三浦氏の政権に対する姿勢や、三浦氏が主張する徴兵制必要論を問題視する人が少なくありません。もちろん、それらも決して看過できない問題ですが、しかし、最も問題視されるべきなのは、いわゆる「スリーパー・セル」発言*1です。

三浦氏の「スリーパー・セル」発言は在日コリアン差別を煽動する危険なものです*2が、三浦氏は当該発言を撤回し謝罪せず、むしろ開き直って発言を正当化しようと腐心しています。このような人物であっても、CMに起用されれば大衆は親しみを抱くようになるでしょう。そうして、大衆に広く親しまれるようになった件の人物が、あらゆるメディアで民族差別を煽動するメッセージを発したとき、大衆はそれをどのように受け止めるでしょうか。三浦氏をCMに起用するということは、つまりそういうことなのです。

三浦氏をCMに起用した人たち、あるいは、三浦氏のCM起用を好意的に評価し「Amazonプライム解約運動」を冷笑する人たちは、三浦氏のような人物をCMに起用することの恐ろしさを少しでも考えたことがあるでしょうか。もっとも、彼らは「いざという時」に「殺される側」の人間ではないゆえに、三浦氏のような人物をCMに起用することの恐ろしさに無頓着でいられるのでしょう。

なぜ日本では周庭さんばかり注目されるのか。

日本人の心つかんだ「民主の女神」 周庭氏はなぜ人気なのか 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News

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言うまでもなく、香港のアクティビストは周庭さんだけではありません。それなのに、なぜ日本では周庭さんばかり注目されるのでしょうか。これについては、たしかに日本人に向けて日本語でメッセージを発信しているからだというのもあるでしょうが、決してそれだけではないと思います。

私はいわゆる「オタク」であるので、以下では「オタク」の視点から「なぜ日本では周庭さんばかり注目されるのか」について試論を展開してみたいと思います。

なぜ日本では周庭さんばかり注目されるのか。思うに、それは多くの日本人が、香港の民主化運動を「巨大な『悪の帝国』に立ち向かう、可憐で無垢な『戦闘美少女』の物語」として消費しているからです。つまり、周庭さんは、多くの日本人にとって「巨大な『悪の帝国』に立ち向かう、可憐で無垢な『戦闘美少女』の物語」のヒロインであり、それゆえ日本では周庭さんばかり注目されるのです。もっとも、周庭さんが「日本のメディアで女神と呼ばれるのは好きじゃない」と語っている*1ことに鑑みれば、その設定は日本のメディアが周庭さんに勝手に押し付けたものであるといえるでしょう。

香港の民主化運動を「巨大な『悪の帝国』に立ち向かう、可憐で無垢な『戦闘美少女』の物語」として、そして周庭さんをそのヒロインとして売り出したいという日本のメディアの思惑は、周庭さんを取り上げたテレビ番組の『中国と戦う“民主の女神”』という煽り文句や、周庭さんが「日本のアイドルや邦楽を愛する普通の女の子」であることを日本のメディアがやたら強調する*2点からも見て取れます。もし(日本のメディアが周庭さんに勝手に押し付けた)周庭さんの「設定」(もっとも、周庭さんが「日本のアニメや音楽が大好きで、独学で日本語を習得した」というのは事実なのでしょうけど)が、「(日本人が敵視する)中国と戦う『民主の女神』、でも普段は日本のアニメや音楽が大好きで、独学で日本語を習得した頑張り屋さんな『普通の女の子』」でなかったら、おそらく嫌悪の対象にされたであろうことは、グレタ・トゥーンベリさんや伊藤詩織さんに対する多くの日本人の反応から容易に推察できます。

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日本のアニメや音楽が大好きで、独学で日本語を習得した頑張り屋さんな「普通の女の子」が、“民主の女神”という「美少女戦士」に変身して「北朝鮮」と並んで敵視の対象とされる「悪の帝国」中国と戦う物語というのは、多くの日本人にとってまさに最高のエンターテインメントのはずだ、そんな「売り手」の思惑通りの消費者行動が、周庭さんばかり注目されるという現象なのです。

このように、多くの日本人が香港の民主化運動を「コンテンツ」として消費するのは、つまるところ多くの日本人にとって香港の民主化運動が、どこまでも「他人事」だからでしょう。もちろん、私も「香港の事態は他人事ではない」と言う「良心的日本人」が少なからずいることは承知しています。しかし、本当に彼らが香港の事態を「他人事ではない」と思っているのならば、「近い将来に日本も香港のようになってしまう」などとは言わないはずです。なぜなら、「今日の香港」は、「明日の日本」ではなく、「昨日の日本」であり「今日の日本」なのですから。

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日本人は、日本の真の民主化を成し遂げるためにも、香港の民主化運動を、いまだ日本が真の民主化を成し遂げていないという現実から目を背けつつ「日本は成熟した民主主義の国である」という幻想によって育まれた過剰な自尊心を手軽に満たすために消費する「コンテンツ」にしてはなりません。

「ナガサキ」は、「地獄島」を忘れることの免罪符ではない。

「核兵器禁止条約、一日も早く批准を」 田上市長・長崎平和宣言全文 - 毎日新聞

 

安倍首相のあいさつ*1とは対照的に、多くの国民の共感と称賛を呼んでいる田上富久・長崎市長の平和宣言は、核廃絶を訴えるメッセージとしては実に素晴らしいものであると、私も思います。

しかし、このような素晴らしい平和宣言を発することができる田上市長が、どうして軍艦島での朝鮮人・中国人強制連行・強制労働に関しては、「島は決して地獄島と表現されるような状況ではなかった」などと平気で言ってしまえるのでしょうか*2

田上市長は、平和宣言で「どうして私たち人間は、核兵器をいまだになくすことができないでいるのでしょうか。人の命を無残に奪い、人間らしく死ぬことも許さず、放射能による苦しみを一生涯背負わせ続ける、このむごい兵器を捨て去ることができないのでしょうか」と問いを投げかけておられますが、軍艦島での朝鮮人・中国人強制連行・強制労働に関しても同様の問いを投げかけることができるはずです。すなわち、どうして私たち日本人は、日本帝国主義をいまだになくすことができないでいるのでしょうか。人の命を無残に奪い、人間らしく生きることも死ぬことも許さず、戦争および植民地支配下の人権侵害による苦しみを一生涯背負わせ続ける、このむごいイデオロギーとそれに支えられたシステムを捨て去ることができないのでしょうか。

平和宣言にもあるように、「被爆者は、この地獄のような体験を、二度とほかの誰にもさせてはならないと、必死で原子雲の下で何があったのかを伝えてきました」が、それは軍艦島での強制労働の被害者も同じです。被害者は、軍艦島での地獄のような体験を、二度とほかの誰にもさせてはならないと、必死で「(田上市長らが強調する)軍艦島の繁栄」の下で何があったのかを伝えてきました*3。しかし、日本人の多くは、被害者の声を真摯に聞こうとしません。それどころか、政府や少なからぬ国民が強制労働の史実を「強制労働はなかった」などと否定し*4日本帝国主義の犯罪を正当化しようとするのです。

「広島、沖縄、そして戦争で多くの命を失った体験を持つまちや平和を求めるすべての人々と連帯して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けること」は、もちろん大切なことです。しかし、それは決して「軍艦島での朝鮮人・中国人強制連行・強制労働」という、「ナガサキ」の「負の歴史」を忘れることの免罪符ではありません。それとも、「ナガサキ(あるいはヒロシマ)」は、返り血で汚れた日本の身を清め、加害の歴史を忘れるための「戦後平和主義のヤスクニ」なのでしょうか。もしそうなら、それこそ原爆被害者に対する冒涜です。

 

honto.jp

「徴用工判決は国際法違反である」という日本政府の主張はデタラメだと言っても過言ではない。

菅長官「明確な国際法違反だ」…資産差し押さえ手続き完了で、韓国批判 : 政治 : ニュース : 読売新聞オンライン

 

2018年10月30日に韓国の大法院によって、いわゆる「徴用工判決」が出されて以降、日本政府は事あるごとに「徴用工判決は国際法違反である」という主張を繰り返しています。かかる日本政府の主張を、日本のマスメディアがさしたる検証も批判もせずにそのまま報じているせいか、「徴用工判決は国際法違反である」というのが「真実」であると信じて疑わない日本国民も少なくないようです。しかし、「徴用工判決は国際法違反である」という日本政府の主張はデタラメだと言っても過言ではありません。

日本政府が主張する「徴用工判決は国際法違反である」の具体的に意味するところが必ずしも明らかではありませんが、ただ、韓国大法院の判決は、たしかに日帝強制動員問題(徴用工問題)が「日韓請求権協定で、完全かつ最終的に解決済みである」という日本政府の主張に反するといえるでしょう。しかし、日帝強制動員問題が「日韓請求権協定で、完全かつ最終的に解決済みである」というのは、あくまでも日本政府の主張にすぎないものであって、それは韓国大法院の判断を拘束するような「客観的真実」では決してありません。また、日本政府は、日帝強制動員問題が「日韓請求権協定で、完全かつ最終的に解決済みである」理由として「日韓請求権協定で日帝強制動員被害者個人の請求権が消滅した」ことを主張していますが、しかしこれは「徴用工判決」後の2018年11月14日の衆議院外務委員会で河野太郎外相(当時)がした「個人の請求権が消滅したと申し上げるわけではございません」という答弁*1と矛盾します。

そもそも、韓国大法院の判決は、「不法な植民地支配下での強制動員による慰謝料請求権は請求権協定の適用対象に含まれない」ということを理由とするものです*2。したがって、それは日韓請求権協定に何ら抵触するものではありません。つまり、「(韓国大法院の判決は)日韓請求権協定に明らかに違反している」という日本政府の主張*3は、デタラメ以外の何ものでもないということです。

日本政府は、もしや「韓国大法院は、日韓請求権協定を解釈するに際し、日本政府の見解に従わなければならない」とでも言うのでしょうか。しかし、それは(韓国大法院の)司法権の独立どころか、韓国の主権を無視した暴論です。また、、日本政府の主張を支持するマスメディアや国民は、過去に韓国の盧武鉉政権が日韓請求権協定で個人の請求権が消滅していることを認めていた話をしきりに持ち出しますが、しかし、司法権の独立に鑑みれば、韓国大法院が過去の政府見解に拘束されなければならないということはありません。

以上より、「徴用工判決は国際法違反である」という日本政府の主張がデタラメであることがお分かりいただけると思います。日帝強制動員問題は、日韓の政治的な対立の問題ではなく、日帝の不法な植民地支配下における人権侵害の問題です。そして、それは現在を生きる日本人が、現在に生きるために向き合うべき日本の「負の歴史」です。しかるに日本人が、日本の「負の歴史」と向き合うどころか、「韓国が約束を守らない」などという政府のデタラメな話*4を鵜呑みにして韓国を蔑視し、あるいは韓国への憎悪をたぎらせるとすれば、それは実に愚かで恐ろしいことです。

「多様性」は、差別を決して許容しない。

 

「差別は多様性のひとつの形である」という柴田英里氏の言説に賛意を示す人は、残念ながら少なくないようです。おそらく、柴田氏らは「違い」に着目して差別的取扱いをすることが「多様性」の意義に適うと考えているのでしょう。しかし、柴田氏らは「多様性」が求められることの意義を誤解しています。

「多様性」が求められるのは、「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」(世界人権宣言第1条)*1からです。すなわち、一人ひとり違う人間の「個人の尊厳」を確保するために「多様性」が求められるのです。

かかる「多様性」が求められることの意義に鑑みると、マイノリティの個人の尊厳を踏みにじる差別は、「多様性」が求められることの意義に適うどころか、むしろ悖るものです。つまり、「多様性」は、差別を決して許容しないのです。

「多様性とは判で押した画一性ではない」と主張する柴田氏は誤解していますが、差別というのは「『個』の違い」を尊重することで社会の「多様性」を志向するものではなく、むしろ「異なる『個』」を排除することで社会の「画一性」を志向するものです。民族差別が「(日本人の)単一民族国家」という「画一性」を志向するものであることや、性差別が「男性社会」という「画一性」を志向するものであることを考えると、このことがよく分かるでしょう。「多様性」は、かかる「画一性」を志向するマジョリティの「暴力」からマイノリティの「個人の尊厳」を守るための手段であり、それは決してマイノリティの個人の尊厳を踏みにじるマジョリティの「暴力」を正当化するための方便ではありません。

「差別は多様性のひとつの形である」という言説がたやすく受け入れられてしまうのは、おそらく「多様性」という言葉がひとり歩きしてしまっているからでしょう。しかし、「多様性」が求められることの意義に遡って考えてみれば、「差別は多様性のひとつの形である」という言説が間違いであることはすぐに分かるはずです。先にも述べたように、「多様性」が求められることの意義に鑑みれば、差別は「多様性のひとつの形」であるどころか、むしろ多様性とはおよそ相容れない代物なのです。

この拙稿が、「差別は多様性のひとつの形である」という誤解を正す一助になれば幸いです。

ヘイトスピーチの法規制に反対する「有識者」の「知的不誠実さ」について。

(憲法を考える)ヘイト規制、表現の自由と両立は 全国初の罰則条例、川崎市で施行:朝日新聞デジタル

 

“「規制は例外的で、ヘイトスピーチ規制も慎重であるべきだ」という榎透・専修大教授(47)は、表現の自由の大切さを指摘する。……しかし、差別的な表現まで保護する価値はあるのか。「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と榎教授。”(以上、2020年7月28日付け朝日新聞朝刊より)

もちろん、表現の自由に対する規制が例外的であるのはそのとおりですし、表現の自由が大切であることは私も否定しません。しかし、そもそも表現の自由憲法上の人権として保障されるのは、それが究極的には「個人の尊厳」の確保に資するからです。それゆえ、いくら表現の自由が大切といえども、それが個人の尊厳に根ざすマイノリティの人格権に常に優越するなどということは決してありません。しかるに、表現の自由の大切さだけを強調してヘイトスピーチの法規制によるマイノリティの人格権保護を否定することは、憲法表現の自由を人権として保障する趣旨を忘れて、マイノリティの個人の尊厳(ヘイトスピーチが傷つけるのは、マイノリティという「記号的存在」ではなく、一人ひとり違う顔を持った生身の人間です。)を軽視あるいは無視した暴論であると言わざるを得ません。

「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」というのも、たしかにそれはそのとおりです。しかし、それは「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という問いに対する答えとして適切なのでしょうか。思うに、「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という問いに対して「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」と答えるのは、抽象的思考レベルの議論と具体的思考レベルの議論を混同して話をはぐらかすものです。つまり、「常に権力の乱用の危険がある」というのは「いかなる表現が保護に値しない『差別的な表現』であるか」を判断あるいは裁定するための規範を定立する具体的思考レベルの議論(もっとも、そこで定立される規範は「法規範」ですから、それは一般的かつ抽象的なものでありますが)における問題であって、それを「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という抽象的思考レベルの議論において問題とするのは、論理が飛躍しています。「差別的な表現まで保護する価値はあるのか」という問いに対する答えとして適切なのは、「差別的な表現まで保護する価値はある」か「差別的な表現まで保護する価値はない」のいずれかです。規範の「漠然不明確性」や「過度の広汎性」による権力の乱用の危険は、具体的思考レベルの議論において問うべきことであって、抽象的思考レベルの議論における問いの答えではありません。それに、もし抽象的思考レベルの議論における「ヘイトスピーチ」の概念が漠然とした不明確なものだというのなら、およそあらゆる抽象的思考レベルの議論における概念が漠然とした不明瞭なものだということになるでしょう。

「国家が法で表現の自由に介入し、言論の良い悪いを決めることには、常に権力の乱用の危険がある」としても、それは決して最終的な答えではありません。先述したとおり、いくら表現の自由が大切といえども、それが個人の尊厳に根ざすマイノリティの人格権に常に優越するなどということは決してないことを考えれば、本当に問うべきなのは「権力の乱用を防ぎつつ、いかにヘイトスピーチによる侵害からマイノリティの人格権を法的に保護していくか」ということです。しかるに、「常に権力の乱用がある」というだけでヘイトスピーチによる侵害からマイノリティの人格権を法的に保護することを否定するというのは、マイノリティの個人の尊厳をあまりにも軽視するものであって、それはマジョリティの怠慢かつ傲慢であるというほかありません。

私は、憲法表現の自由を人権として保障する趣旨に鑑みて、マイノリティの個人の尊厳を踏みにじるヘイトスピーチ表現の自由の保障の範囲外である*1と考えます。ただ、ヘイトスピーチ表現の自由の保障の範囲外であるとしても、それが表現の自由にかかわるものであることまでは否定できませんから、ヘイトスピーチの法規制が厳格かつ明確な要件の下に行われなければならないのは当然のことです。しかし、だからといって、ヘイトスピーチを政権批判と同列に扱うのは、前者がマイノリティの個人の尊厳を踏みにじるものであるのに対して後者が究極的には個人の尊厳の確保を目的とする民主政に資するものであることに鑑みれば、甚だ不適切です。

日本の「有識者」の多くは、どうやら表現の自由の大切さを強調してヘイトスピーチの法規制に反対するのが原理原則に忠実な態度であると考えているようです。しかし、それは「個人の尊厳」という根源的な原理原則を軽視あるいは無視するものです。もし、それが「故意」によるものだとしたら、それは「知識人」として恥ずべき知的不誠実な態度だと言わざるを得ないでしょう。