葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「こんな時」だからこそ、「ファシズムの罠」にご用心。

新型コロナウイルスの感染拡大について、安倍政権の失策を批判する声は決して少なくありません。しかし、それ以上に多いのが「こんな時に政権批判をするな」という声です。

たしかに、新型コロナウイルスの脅威は「いま、ここにある危機」です。しかし、それゆえに政権批判を控えろというのは、まさに「ファシズムの論理」であり、これもまた「いま、ここにある危機」です。つまり、「こんな時」だから政権批判を控えるのではなく、むしろ権力者が人々の脅威に対する恐怖心を利用して自由な個人を一つに束ね、個人の自由を剥奪しようとする「こんな時」だからこそ、政権批判を怠ってはならないのです。

ただ、そうはいっても安倍政権の失策を批判するあまり、政体が異なる国の強権的な措置を称賛し、そのような強権的な措置を安倍政権がとらないことをなじるのは悪手でしかありません(もっとも、日本の「民主主義」体制も所詮は形だけでしかありませんが、しかし、だからこそ今の日本で政府に強権的な措置を求めることは危険なのです。)。つまり、強権的な措置を安倍政権がとらないことをなじるのは、安倍政権にとって痛手になるどころか、むしろ「思う壺」であり、国民は自ら進んで「ファシズムの罠」にはまりにいくようなものです。

どうやら、「たとえ強権的な措置であっても、防疫の必要があればこれを許容すべきだ」と考えるリベラル派も、少なからずいるようです。もちろん、私も「防疫の必要性」そのものを否定はしません。しかし、防疫の必要があるというだけで、権利・自由に対するいかなる規制措置も許容すべきだと考えるのは間違いです。人権保障の観点から、規制措置は社会公共に対する障害の大きさに比例したもので、規制の目的を達成するために必要な最小限度にとどまらなければなりません。新型コロナウイルス感染症はもちろん恐ろしいですが、しかし「防疫に必要であれば、自由は制限されるべきだ」というのが「当たり前」の感覚になってしまうのも、正直恐ろしいです。

先にも述べましたが、「こんな時」だからこそ、政権批判を怠ってはなりません。しかし、それと同時に、「こんな時」だからこそ「ファシズムの罠」には十分に用心しなければなりません。私たち安倍政権の批判者は、くれぐれも「ミイラ取りがミイラになる」ことのないように……。

日本政府は、過度で不合理な入国制限をただちに撤回せよ。

中韓からの入国制限発動 2週間待機要請、邦人も―新型コロナ:時事ドットコム

 

日本政府による中国・韓国からの入国者に対する入国制限について、これを「新型コロナウイルス感染症対策として必要なのだから、当然の措置だ」と言う人は少なくありません。

もちろん、私も新型コロナウイルス感染症対策の必要性そのものを否定するつもりはありません。しかし、入国制限は人身の自由に影響を及ぼすものである以上、必要性があれば国家が何をしてもよいというものではなく、防疫目的を実現するために必要な最小限度の制限にとどめるべきです。これを今般の措置についてみると、政府の専門家会議のメンバーからも「検疫を強化する時期は過ぎている。それよりも国内の感染状況の把握や対策が重要なステージだ」と疑問視する声が出ていることに鑑みれば*1、当該措置は防疫目的を実現するために必要な最小限度の制限とはいえないでしょう。

そもそも、今般の措置が本当に「防疫目的」であるかどうかも疑問です。当該措置が決まった経緯に鑑みると*2、これはやはりやはり安倍政権が自らの失策に対する批判の矛先をそらすための政治的パフォーマンスであると言わざるを得ないでしょう。この政治的パフォーマンスは、自らの失策に対する批判の矛先をそらすものであるのみならず、国民の排外意識をくすぐるものである点で、実に悪辣です。もっとも、このような愚かな政治パフォーマンスに排外意識をくすぐられて中国や韓国に対する差別感情をあらわにする国民も国民ですが。

日本国民の中には、安倍政権の愚挙に対して韓国政府が「対抗措置」をとった*3ことを非難する人も少なからず見受けられます。たしかに、私も日本人へのビザ免除措置が停止されたことはとても残念に思います。しかし、韓国政府の「対抗措置」は、そもそも安倍政権の愚挙がなければとられなかったものです。つまり、根本的な責任は安倍政権にあるのであり、これを棚に上げて日本国民が韓国政府の「対抗措置」を非難するのは無責任だといえます。

安倍首相にお願いです。己の権力欲のために人の生活や人生を踏みにじるのは、どうかやめてください*4*5。私は、日本国民として(「国民」概念の暴力性を認識しつつも、本稿ではあえてこう言います)、日本政府が中国・韓国からの入国者に対する過度で不合理な入国制限をただちに撤回することを、日本政府に対して求めます。

徴用工問題は「植民地問題」である。

徴用工問題(日帝強制動員問題)において、被害者への賠償を命じる韓国大法院判決の加害企業による誠実な履行を妨げる日本政府の対する批判の中には、「単なる企業による酷使や搾取の問題なのに、なぜ日本政府が介入するのか」という意見が少なからず見受けられます。

たしかに、徴用工問題は日帝植民地支配下で起きた日本企業による人権侵害問題であって、「日韓の政治対立」の問題ではありません。しかし、「日本企業による人権侵害問題」だからといって、それは「単なる企業による酷使や搾取の問題」でもありません。

日本企業が朝鮮人労働者に対して奴隷的な労働を強いることができたのは、まさに日帝の植民地支配があったからこそです。つまり、日帝の植民地支配は、徴用工問題の本質的な特殊性だということです。この点に鑑みれば、徴用工問題を「単なる企業による酷使や搾取の問題」だと言うことはできません。

このように、徴用工問題が「単なる企業による酷使や搾取の問題」ではなく「植民地問題」である以上、究極的に問われるべきなのは、日帝植民地支配の不法性、そして植民地支配責任という「負の遺産」を引き継いだ日本政府の法的責任です。韓国大法院判決は、日帝植民地支配が不法であることを前提としています*1。それゆえ、日本政府は加害企業による当該判決の履行を許せば、日帝植民地支配が不法であることを事実上認めることになり、ひいては日帝の植民地支配について日本政府の法的責任を認めることになります。だからこそ、日本政府は、加害企業が当該判決を誠実に履行するのを必死に妨げるのです。

日帝強制動員の被害者が経済的に救済されることは、もちろん大事です。しかし、前述のとおり徴用工問題が「単なる企業による酷使や搾取の問題」ではなく「植民地問題」である以上、経済的な救済のみでは、決して「最終的かつ不可逆的に解決され*2」ることはないでしょう*3日帝強制動員問題(徴用工問題)や日本軍性奴隷制問題(日本軍「慰安婦」問題)といった日帝植民地支配下における人権侵害問題が「最終的かつ不可逆的に解決され」るためには、日本政府が日帝植民地支配の不法性を認め、自らの法的責任を認めることがぜひとも必要なのです。

何でもかんでもアメリカのせいにすることなかれ。

ネット右翼”のみならず“反米リベラル派”の中にも、「日本と韓国の対立は、アメリカが日韓を『分断統治』するために仕掛けたものである」と言う人がいます。

私自身、アメリカ帝国主義には批判的な立場です。しかし、そんな私でも、「アメリカによる日韓『分断統治』論」には決して賛同しません。

アメリカによる日韓『分断統治』論」者は、米日韓三角軍事同盟と、それを支える「日韓65年体制」という、戦後の米日韓関係をまるで理解していません。アメリカは、アジア覇権確立のために、日本と韓国を反目させるどころか、むしろ友好協力関係を結ばせました*1。そして、その友好協力関係を維持するべく、日本は韓国の軍事独裁政権を経済的に支え、一方で韓国の軍事独裁政権は日韓対立の火種となる歴史問題の噴出を強権的に抑えつけたのです(もっとも、のちに韓国の民主化によって、歴史問題の噴出を抑えつけていた「日韓65年体制」に綻びが生じます。)。「分断」と言うなら、むしろ「日韓65年体制」こそ韓国社会を、そしてコリア半島を「分断」しているといえます。

アメリカによる日韓『分断統治』論」者は、戦後の米日韓関係について無理解であるのみならず、日帝の植民地支配という歴史問題について無責任であるともいえます。今もなおくすぶり続ける歴史問題という日韓対立の火種は、右翼が言うような「韓国によるによる蒸し返し」によるものなどではないのはもちろん、アメリカが日韓を「分割統治」するために仕掛けたものでもありません。歴史問題という日韓対立の火種が今もなおくすぶり続けるのは、ほかでもなく日帝の植民地支配について責任を負う日本が「負の歴史」を清算しないからです。しかるに、それを棚に上げて「日本と韓国の対立は、アメリカが日韓を『分断統治』するために仕掛けたものである」と言うのは、責任転嫁にほかなりません。

もちろん、米日韓三角軍事同盟の維持に腐心し、歴史問題よりも「東アジア安保」を優先させようとするアメリカに全く責任がないとは言いません。しかし、日韓対立の火種となっている歴史問題の解決についての第一義的な責任は、あくまでも日本にあるのです。この点を看過し、「アメリカによる日韓『分断統治』論」を唱える“反米リベラル派”は、“ネット右翼”の無知と無責任を批判できる立場ではありません。

政権を批判することに、「日本」が好きかどうかは関係ない。

「安倍政権を批判するなんて、リベラル派はそんなに『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」と言う“ネット右翼”に対して、「『日本』が好きだからこそ、安倍政権を批判するのだ」と反論する“リベラル派”が少なくありません。

おそらく、そのように反論する“リベラル派”は「愛する『日本』を良くしたいから」だと言いたいのでしょう。しかし、私が思うに、それは間違った議論の土俵に乗るものであって、妥当ではありません。なぜなら、政権を批判することに、「日本」が好きかどうかは関係ないからです。

もちろん、「日本」を好きだと思うのは個人の自由です。しかし、自分の生活する社会を良くするために、「日本」という“共同の幻想”が好きである必要はありません。なぜなら、私たちの社会生活は、本来的に「『日本』が好き」という個人的な感情とは関係なく営まれるものなのですから(「日本」が好きでなければ社会生活を営みことができない、というのは迷妄にすぎません。)。つまり、自分の生活する社会を良くするために政権を批判することは、「日本」が好きかどうかとは関係なく行われるべきものだということです。

それとも、自分の生活する社会を良くするためには、「日本」を好きであることが必要だというのでしょうか。しかし、(「『日本』が好きだからこそ、安倍政権を批判するのだ」と言う“リベラル派”が「私こそが真の愛国者だ」としばしば口にすることからも分かるように)「日本」の概念が〈国家〉と深く結びついたものであり、そのうえ、その〈国家〉が権威主義的な〈天皇〉を擁するものであるという現状では、「自分の生活する社会を良くするためには『日本』が好きでなければならない」とすることは、ファシズムにつながりかねない危ういものだといえます。また、「……『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」に対して「『日本』が好きだからこそ……」と返すのは、その根底に「日本が嫌い=悪」だという発想があるのでしょう。しかし、そのような発想は、それこそ「『日本』が嫌いなら『日本』から出て行け」という排外主義につながりかねないものです。

政権を批判するのは、〈治者〉であり〈被治者〉である自分の生活する社会を良くするためです。そうであれば、“リベラル派”は“ネット右翼”が用意した土俵に乗ることなどせず、ただ「〈治者〉であり〈被治者〉である自分の生活する社会を良くしたいから、安倍政権を批判するのだ」と言えばいいだけです。それとも、あえて“ネット右翼”が用意した土俵に乗り、そして「我こそが、真の愛国者なり!」と声高らかに叫びたいのでしょうか。その同じ口で、「ファシストを通すな!」と謳いながら。

 

伊勢崎ゼミがいうところの「混ジャパ」である私が考える、「純ジャパ/混ジャパ」をめぐる議論の問題点。

「純ジャパ」イベントがあぶりだした、私の中の「潜在的な分断」

withnews.jp

 

「日本人」である父と「在日コリアン」である母との間に生まれた私は、まさに伊勢崎ゼミがいうところの「混ジャパ」ですが、そんな私が何よりもまず彼らに言いたいのは、「私のルーツやアイデンティティを弄ぶのもいい加減にしてください」ということです。

冒頭に掲げたリンク先の記事では、“「潜在的な分断」に目を向ける上で、少なからず意味があった”、“あるいは普段は見えない「潜在的な分断」をあぶり出す起爆剤になったのかもしれない”とポジティブに捉えられていますが、私はマジョリティの「教材」として役立つために生まれたのではありません。

「純ジャパ」であるマジョリティが「『純ジャパ』になれない『日本人』である『混ジャパ』だって『日本人』だ」と言うのは、要するに「『混ジャパ』は『純ジャパ』になれない存在ではあるが、それでも『ジャパ』である以上は『日本人』の仲間に入れてあげよう」ということです。もっとも、彼らにとって大事なのはたとえ「混」であっても「ジャパ」であることですから、「混ジャパ」にもなれない人のことは「外国人」として疎外し続けるでしょう。つまり、「『混ジャパ』だって『日本人』だ」というのは、「多様性」で粉飾した「同化と排除の論理」でしかないのです。

そもそも、はたして「混ジャパ」はマイノリティなのでしょうか。たしかに、「混ジャパ」は「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立においてはマイノリティでしょうし、また、「見た目による差別」などといった事実上の差別を受けることもあるでしょう。しかし、父が「日本人」である「混ジャパ」の私は日本社会のマジョリティである日本国籍者ですし、(1984年改正、85年施行の)改正国籍法により父系優先血統主義から父母両系血統主義となった結果*1、「混ジャパ」は原則として日本国籍を取得することから、「混ジャパ」の多くが日本社会のマジョリティである日本国籍者であると考えられます(ただし、「混ジャパ」は日本国籍の取得によって重国籍となることから、多重国籍を認めていない日本では一定の期限までに国籍の選択をしなければなりません*2。)。そうだとすれば、日本国籍者である「混ジャパ」を、事実上のみならず法律上も差別される日本国籍者ではないマイノリティと同じ意味で「マジョリティ」と言うことはできません。「純ジャパ/混ジャパ」をめぐる議論では、この点が看過されているように思えます。

伊勢崎ゼミの指導教員である伊勢崎賢治氏が言う「潜在的な分断」というのも、その趣旨はいまいち不明瞭ですが、「『混ジャパ』のマジョリティ性」に鑑みれば、要するに「マジョリティである日本人(=日本国籍者)が(紛うことなき『日本人』である)『純ジャパ』と(『純ジャパ』になれない『日本人』である)『混ジャパ』に分断されている」といった程度の話でしょう。つまり、「混ジャパ」を「日本人」に同化することで「マジョリティである日本人」の分断を解消する一方で、「『混ジャパ』にもなれない『外国人』」が疎外され続ける状況を無視ないしは軽視するものであり、やはりそれは「同化と排除の論理」でしかないということです。

「混ジャパ」をポジティブに捉える人は、おそらく「日本人」という概念に多様性を持たせたいのでしょう。しかし、「日本人」という概念の多様性は、それこそ「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立を乗り越えたところにあるのではないでしょうか。もっとも、天皇制という「同化と排除の論理」に貫かれた制度が存在し、また、「日本人」の概念が極めて人種主義的な国籍制度と緊密に結びつけられてしまっている現状では、ただ「純ジャパ/混ジャパ」という二項対立を乗り越えるだけでは、「日本人」という概念に多様性を持たせることは決してできないでしょう。「日本人」という概念に多様性を持たせるには、やはり天皇制という「同化と排除の論理」に貫かれた制度を廃止し、極めて人種主義的な国籍制度と緊密に結びついた「日本人」の概念をいったん解体して再構築する(それにより、極めて人種主義的な国籍制度は必然的に変革を迫られます。)必要があります。

我々“オタク”に自由があるのと同じように、“フェミニスト”にも自由がある。

本来、“オタク”と“フェミニスト”は対立する存在ではありませんが、本稿では便宜的に“オタク”と“フェミニスト”を対立する存在として扱いますことを、予めご了承ください。

さて、“オタク”の中には、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」と言う人が少なからずいます。

言うまでもなく、“オタク”がフェミニストの批判に反論するのは自由です。しかし、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」と言う人は、国家とは異なり“フェミニスト”が(一人の人間である以上、当然に)言論の自由という人権の主体であることを看過する過ちを犯しています。

まさか、“オタク”は“フェミニスト”を巨大企業のような強大な事実上の社会的権力をもつ国家類似の存在だとでも言うのでしょうか。しかし、それならば“オタク”が支持するであろう反表現規制団体によるロビー活動も社会的権力の行使だと言わざるを得ないでしょう。

憲法が原則として国家と私人の関係を規律するものであるのは、人権が国家に対する闘争によって獲得されてきたという歴史的経緯もありますが、本質的な理由は、私人と私人の関係においては、当事者双方がそれぞれ自由をもっているからです。つまり、“オタク”に表現の自由があるのと同じように、フェミニストにも性的表現を批判する言論の自由があるのです。そして、“フェミニスト”の言論の自由は人権なのですから、それをまったく性質の異なる国家の権力と同視して、性的表現に対する“フェミニスト”の批判を「表現弾圧だ」などと言うことは誤りなのです。

私は、あえて“オタク”として自戒的に言います。我々“オタク”は、我々自身に自由があるのと同じように、“フェミニスト”にも自由があることを忘れてはなりません。それは、正しい議論をするための不可欠な前提です。