葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

差別も貧困も、本当は「社会のせい」である。

先日、インターネット上で「差別をなくすよりも、まず先に貧困をなくすべきだ」という意見を目にしました。この意見に共感する人も少なくないようですが、私はとうてい共感できません。なぜなら、「差別と貧困の、まずどちらを先になくすべきか」という問いが、そもそも間違っているからです。

「差別をなくすよりも、まず先に貧困をなくすべきだ」という意見の持ち主は、貧困が差別を生み出すと考えているようです。しかし、それは誤解です。差別も貧困も、「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものです。したがって、差別も貧困も、それをなくすには「力」を持った人たちによって作られた社会の構造をこわさなければならないのであり、問題解決の優先順位を付けることはそもそもナンセンスなのです。また、差別と貧困の関係についていえば、差別は「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものですから、貧富とは無関係です(もしかすると、貧困が差別を生み出すと考えている人は、差別を「貧困層ルサンチマン」だと考えているのかもしれませんが、それは誤解です)。しかし、差別が特定の属性を持つ個人や集団の社会参加の機会を奪い、貧困を助長するというのは、よくあることです。

このように、差別も貧困も、「力」を持った人たちによって作られた社会の構造が生み出すものですから、つまりそれらは「社会のせい」なのです。「差別や貧困を社会のせいにするな」とよく言われますが、しかし、それは差別や貧困を生み出す社会の構造を温存したい人たちが弄する詭弁にほかなりません。差別や貧困をなくすには、むしろ「社会のせい」にして、社会を変えなければならないのです。