葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

差別はなぜいけないのか

差別はなぜいけないのか。かかる問いは、議論をもてあそぶために発せられることが多いので、それに答えるのは悪手かもしれません。それでも、私はあえてそれに答えたいと思います。

差別はなぜいけないのか。思うに、それは個人の尊厳が人間の普遍的な価値だからです。そして、個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるのは、個人の尊厳が〈人間〉の条件だからです。つまり、個人の尊厳を否定することは、〈人間〉存在を否定することです。

もしかすると、「個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるならば、差別したい個人の意思も尊重されるべきだ」と考える人がいるかもしれません。しかし、その考えは間違いです。なぜなら、差別は個人の尊厳を踏みにじるものであり、つまり差別と個人の尊厳は本質的に相容れないものだからです。

私が個人として尊重されるのであれば、あなたも個人として尊重されなれければなりません。たとえあなたが個人として尊重されることを望まなくても、それによって他者が個人として尊重されなくなることは決してありません。個人の尊厳が人間の普遍的な価値であるというのは、つまりそういうことです。

「差別は人間の本性だ」という言説がしばしば見聞されます。しかし、差別が人間の本性だというのは誤解です。なぜなら、差別は支配階級によって作られるものだからです。差別がいつまでもなくならないのは、差別が人間の本性だからではありません。支配階級が、社会の差別構造をいつまでも壊さずに保ち続けているからです。もし人間の本性であるならば、私たちは差別をなくすことについて絶望するしかありません。しかし、前述したように差別は人間の本性ではなく支配階級によって作られるもの、すなわち人が作ったものなのですから、私たちはこれを壊すことができるのです。しかるに、社会の差別構造をいつまでも壊さずに保ち続けるのであれば、やはり差別主義者との誹りを免れないでしょう。