葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

天皇は、政治利用されるために存在する。

東京新聞:「天皇の政治利用」懸念 首相、代替わり絡め改憲意欲:核心(TOKYO Web)

 

天皇の「代替わり」にともなう儀式に関して、リベラル派の多くが「安倍政権は天皇を政治利用している」と安倍政権を批判しています。

安倍政権が天皇を政治利用しているというのは、確かにその通りだと私も思います。しかし、「安倍政権は天皇を政治利用している」と安倍政権を批判するリベラル派は、根本的な誤解をしています。問題の本質は、安倍政権が天皇を政治利用する点ではなく、象徴天皇制そのものが神話という虚構に由来する天皇の権威を権力者が政治的に利用することで人民を束ねんとする支配装置だという点にあります。つまり、象徴天皇は、安倍氏のような権力者によって政治利用されることに意義があるのです。

リベラル派の中には、「象徴天皇の意義は安倍氏のような権力者によって政治利用されることにあるのではない。天皇とは『祈る存在』であり、国民の幸せと世界の平和を祈ることこそが、平和主義国家・日本の象徴たる天皇としての意義である」と言う人もいるかもしれません*1。しかし、その「祈り」というのは、つまるところ戦後日本が抱える諸矛盾を糊塗する欺瞞以外のなにものでもありません。そもそも、象徴天皇制それ自体が、自衛隊と並ぶ戦後日本の主要な矛盾の一つにほかなりません。

象徴天皇制は、いわば「天皇制の平和利用」です。こう言うと、おそらく多くのリベラル派は天皇制を平和的に利用することだと思うでしょう。しかし、そうではなく、むしろ支配装置である天皇制を維持し補強するために「平和」を利用するということです*2

天皇制をタブー視せず、象徴天皇制について国民は大いに議論すべきだという声は、決して少なくありません。しかし、その多くは「主権者として、どんな天皇像を望むのか。どのように皇統をつないでいくのか。いまいちど考えるべきである」といったものです*3。「天皇制をタブー視すべきではない」と言いながら、どうして天皇制の存続を絶対的な前提とするのでしょうか。天皇制の存続を絶対的な前提とした議論など、所詮うわべだけのものにすぎません。そのようなうわべだけの議論をいくらしたところで、象徴天皇制の問題の本質に迫ることは決してできないでしょう。本当に議論すべきことは、「主権者として、どんな天皇像を望むのか。どのように皇統をつないでいくのか」などではなく、反民主主義的で差別的な制度である天皇制の是非です。