あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

「あいちトリエンナーレへの補助金不交付」は、何が問題か。

脅迫→展示中止→補助金不交付「あしき前例」 不自由展 [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル

 

あいちトリエンナーレへの補助金全額不交付に関して、「公金に頼らなくても、民間の協賛金で賄えるはずだ」あるいは「公金に頼るのであれば、政府に干渉されるリスクを甘受するしかない」といった意見が散見されます。また、補助金の全額不交付に批判的な意見の中にも、「事業自体の有用性は認められる」あるいは「全ての作品が問題なのではない」といったことを理由に「全額不交付ではなく、減額にとどめるべきだ」といったものがあります。

たしかに、理屈としては芸術祭そのものは公金に頼らなくても開催できるでしょうし、公金に頼ることで政府に干渉されるリスクがあることも事実です。しかし、あいちトリエンナーレへの補助金全額不交付は、単なる「カネの問題」ではありません。これを単なる「カネの問題」だととらえるのは、問題の本質を見誤っています。

今般の問題の本質は、公金を使うことの是非ではなく、補助金不交付が、これを通じて政府が「政府にとって不都合な表現は排除されてしかるべきである」(そして、さらには「政府にとって不都合な価値観と、そのような価値観を持つ人間は排除されてしかるべきである」)というメッセージを発するものであるという点にあります。「全額不交付」というのも、「巻き添えを食いたくなければ、排除に協力せよ」ということなのでしょう。そうであれば、なんとも邪悪で卑劣なやり口です。

ここで注意すべきなのは、表現の自由の問題は、表現が不快か否かといった主観的な問題ではないということです。今回“標的”とされた平和の少女像や天皇コラージュは、たしかに右派にとっては「不快な表現」なのでしょう。しかし、平和の少女像や天皇コラージュが「不快な表現」であろうとなかろうと、そもそも問題ではありません。平和の少女像は戦時性暴力の根絶という個人の尊厳にかかわるものであり、天皇コラージュは天皇制への抗議という民主主義にかかわるものです。また、これらは日本が克服すべき帝国主義にかかわるものであります。そして、表現の自由が個人の尊厳(自己実現の価値)と民主主義(自己統治の価値)によって支えられている点に鑑みれば、平和の少女像や天皇コラージュを「政府にとって不都合な表現」だとして排除することは、まさしく表現の自由の息の根を止めるものだといえます。

表現の自由の息の根を止めるものだというのは、決して単に文化としての芸術活動の自由を奪うだけのものではありません。前述したように、今回“標的”とされた平和の少女像や天皇コラージュが個人の尊厳あるいは民主主義にかかわるものであることに鑑みれば、これらを排除することは、個人が尊重される民主主義社会を根底から破壊するものです。つまり、今般の問題は、決して芸術家だけの問題ではないということです。だからこそ、私は市民として、あいちトリエンナーレへの補助金全額不交付に断固として抗議します。