葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「『嫌韓』は『韓流』に対する反発である」という浅薄な認識

「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」と言う人たちがいます。もしかすると、彼らは「フジテレビ抗議デモ」や「花王不買運動」から「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という認識を有するに至ったのかもしれません。しかし、それは浅薄な認識です。

まず、そもそも「嫌韓」などという言葉を用いることが間違っています。民族差別や排外主義は、「好き嫌い」の問題ではありません。つまり、「好き嫌い」は個人の自由の問題ですが、民族差別や排外主義は、個人の自由として許される問題ではないのです。

誤解している人が少なくないようですが、日本社会の韓国(朝鮮)蔑視は昨日今日に始まったことではなく、近代以降の日本社会に深く根を下ろしてきた、いわば近代日本の「支配的価値観」です。そして、日本人が「韓流」に反発心を抱くのだとすれば、それは「『韓流』とか調子に乗るな」と韓国を見下しているからです。つまり、「『韓流への反発』」などというのは表層的な現象にすぎず、その根底には日本社会の韓国蔑視観があるということです。

「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説は、主に「ネット右翼」が民族差別や排外主義を正当化する言い訳として用いられるものでしょうが、ただ、「リベラル派」にも日本人、とりわけ日本人男性の「ルサンチマン」を批判する趣旨でこの言説を用いる人がしばしば見受けられます。もちろん、私もその趣旨はわからなくもありません。しかし、「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説が表面的なものにすぎず、日本社会の韓国蔑視観という問題の本質を看過するものである点に鑑みれば、これを用いることは妥当ではありません。それのみならず、「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説自体が、「韓国は『韓流』とかいって調子に乗っているのだから、反発されて嫌われてもしかたがないだろう」という韓国蔑視観に基づくものです。しかるに、「リベラル派」の彼が「『嫌韓』は『韓流』への反発だ」という言説に違和感を覚えないのだとすれば、残念ながら彼も、日本社会の韓国蔑視観と無縁ではないということです。