葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

変えるべきなのは憲法9条ではなく、憲法9条を蔑ろにする現状である。

憲法9条の護持を、「現実を見ない空虚なもの」だと冷笑する人が少なくありません。彼らの言う「現実」とは、「日本が中国や北朝鮮の軍事的脅威にさらされている」というものです。たしかに、日本のマスメディアが報じる「現実」は、そのようなものでしょう。しかし、はたしてそれは、本当に私たちが見つめるべき「現実」なのでしょうか。

憲法9条の護持を「現実を見ない空虚なもの」だと冷笑する人は、「軍事的抑止力」を盛んに主張します。おそらく、彼の主張に賛同する日本国民は少なくないでしょう。しかし、私は「軍事的抑止力」にまったく賛同できません。「9.11」では、アメリカは世界屈指の軍事力を誇るにもかかわらず、「武力攻撃」(「9.11」が国際法における「武力攻撃」か否かについては争いがありますが、それはさておき、アメリカは「9.11」のテロ攻撃を「武力攻撃」と見なしてアフガニスタンへ「報復戦争」を仕掛けました。)を受けました。つまり、「軍事的抑止力」などというものは、単なる気休めでしかないということです。そして、いかに「軍事的抑止力」がまやかしであるかは、世界中で今なお戦争や紛争が絶えないことを考えれば明らかです。それに、もし本当にアメリカの軍事力が「抑止力」であるならば、「中国や北朝鮮の軍事的脅威」が高まることなどないはずです。それにもかかわらず、日本政府が「中国や北朝鮮の日本に対する軍事的脅威の増大」を喧伝するというのは、どういう了見なのでしょうか。

「日本が中国や北朝鮮の軍事的脅威にさらされている」などというものは、本当に私たちが見つめるべき「現実」ではありません。なぜなら、「中国や北朝鮮の軍事的脅威」というのは、米日同盟下での「戦後日本」の再軍備に対する中国や朝鮮の「反発」を、日本が〈帝国〉の戦争に加担する「大義名分」として利用するために、都合よく変造したものでしかないからです。つまり、「中国や北朝鮮の日本に対する軍事的脅威」などというものをつくり出しているのは、戦争放棄を謳った憲法9条の存在にもかかわらず、〈帝国〉の戦争に加担するために再軍備化した日本なのです。

ここまで言えば、もうお分かりの方も多いでしょう。本当に私たちが見つめるべき「現実」は、「戦後日本」が憲法9条の存在にもかかわらず〈帝国〉の戦争に加担し続けているという現実です。先にも述べましたが、日本に対する中国や朝鮮の「反発」は、かつて中国を侵略し朝鮮を植民地支配した日本が、戦争放棄を謳った憲法9条の存在にもかかわらず〈帝国〉の戦争に加担するために再軍備化したことによって惹き起こされたものです。そのような現実を見ずに「日本が中国や北朝鮮の軍事的脅威にさらされている」と騒ぎ立てて、憲法9条改憲を主張することのほうが、「現実を見ない空虚なもの」だといえます。もっとも、「戦後日本」が憲法9条の存在にもかかわらず〈帝国〉の戦争に加担し続けているという現実を見ていないのは、「戦後、憲法9条があったおかげで日本は戦争に巻き込まれずに済んだ」などと言う「護憲派」も同じです。憲法9条は「日本が戦争に巻き込まれないためのお守り」ではなく、「日本が加害国となる戦争をさせないための誓約」です。しかるに、日本が〈帝国〉の戦争に加担することは、憲法9条の趣旨に悖るものと言わざるを得ません。本当の意味で憲法9条を護持するためには、「護憲派」も「戦後日本」によって憲法9条が蔑ろにされている「現実」をしっかりと見つめるべきです。

「保守派」のみならず「リベラル派」の中にも、憲法9条の護持を「保守」だと言う人がいます。しかし、それは浅薄な誤解です。なぜなら、憲法9条を護持するためには、憲法9条を蔑ろにする現状を変えなければならないのですから。つまり、変えるべきなのは憲法9条ではなく、憲法9条を蔑ろにする現状であるということです。そして、憲法9条を蔑ろにする現状を変えるために必要なのは、「平和主義」を問い直すことです。「戦後平和主義」は、決して〈歴史の終わり〉ではありません。