あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

梶村秀樹『排外主義克服のための朝鮮史』を今こそ読むべき理由

honto.jp

 

1970年代に行われた梶村秀樹*1先生(1935-1989)の講演記録を一冊にまとめた『排外主義克服のための朝鮮史』は、朝鮮史の知識を網羅的に解説したものでありませんし、梶村先生が依って立つ学説の中には、最近の研究によってすでに否定されている見解もあります。それゆえ、「梶村秀樹の著作は、もはや読む価値がない」と言う人もいるでしょう。しかし、私が思うに、そのような人は本書の意義を誤解しています。

『排外主義克服のための朝鮮史』は、決して朝鮮史の知識を網羅的に習得するためのものではなく、書名のとおり「排外主義克服のための」ものです。つまり、本書でいう「朝鮮史」とは、単なる知識としての「朝鮮史」ではなく、「排外主義を克服する方法としての朝鮮史」なのです。

それでは、「排外主義を克服する方法としての朝鮮史」とは、どういうことか。それは、一言で言えば「朝鮮を主体として捉えた朝鮮史」です。日本国民が学校教育などを通じて習得する「朝鮮の歴史」は、そのほとんどが朝鮮を客体として「日本国民のまなざし」で眺めたものです。梶村先生は言います。「全面的な価値体系が、空気のようにしみ込んでいる帝国主義的なイデオロギー体系、あるいは社会関係の中で作り出されてしまっているということを、出発点において私たちは免れえないのではないか」と。つまり、「日本国民のまなざし」も帝国主義的なイデオロギー体系の中で作り出された価値体系から免れえないのであり、そうした「まなざし」で眺めた「朝鮮の歴史」は、「朝鮮停滞史観」的な朝鮮を蔑視したものとならざるを得ない。そして、それが排外主義を支える大きな柱の一つとなっている。そこで、「朝鮮を主体として捉えた朝鮮史」を学ぶことで朝鮮に対する蔑視観を打ち壊し、排外主義を克服するのです。

日本社会でマジョリティとして生きている一人として、私自身も「日本国民のまなざし」と無縁ではありません。それこそが、私が『排外主義克服のための朝鮮史』を読む一番の理由です。しかしながら、もしかすると「私は朝鮮蔑視観なんて持ってないし、ネトウヨのような排外主義者ではないから、『排外主義克服のための朝鮮史』を読まなくても大丈夫だ」と言う人も少なくないかもしれません。もちろん、『排外主義克服のための朝鮮史』を読むか読まないかは各人の自由ですが、しかし、「私は朝鮮蔑視観なんて持ってないし、ネトウヨのような排外主義者ではない」と言う人にこそ、むしろ『排外主義克服のための朝鮮史』を読んでもらいたいと私は思います。梶村先生は言います。「朝鮮のことをある程度知っている人間が、中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、もっとも悪質な偏見の持ち主になることはよくあることのようです」と。残念ながら、リベラル派言論人の中にも、この「中途半端に知ったことをすべてと思い込んでしまって、もっとも悪質な偏見の持ち主にな」ってしまったような人が少なからずいます。

さて、日本の排外主義を批判するリベラル派の中には、もしかすると「日本の排外主義は日本人の『民族性』によるものなのだから、日本人が排外主義を克服することなど不可能なのではないだろうか」と絶望する人もいるかもしれません。たしかに、日本の排外主義は克服されるどころか、ますますひどくなる一方です。しかし、「日本の排外主義は日本人の『民族性』によるものなのだから……」と絶望するのが間違いであることは、本書の次の一節を読めば容易に理解出来るでしょう。

「日本の天皇イデオロギーや民族排外主義について、僕があえて権力の側がつくったものという面を強調してきたのは、日本人の太閤以来変らぬ民族性といったようないい方は問題の本質をかえってムードでぼかしてしまうと思うからです。人がつくったものだから、われわれはこれをこわしていくことができるのです。自然現象のような『民族性』ということばは絶望に通じていきかねない。紀元節にしても天皇制にしても明治の、日本の資本主義が発生していく過程で明らかに意図的につくられたものなのです。」

『排外主義克服のための朝鮮史』は、まさに「われわれ」が「これ(権力の側がつくった日本の天皇イデオロギーや民族排外主義)をこわしていく」ために、今こそ読むべき一冊です。