あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

「暴力を表現すること」と「暴力で表現すること」は、別のものである。

「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」と言う人がいます。

「セックスや暴力を描写した表現の自由」が守られるべきであるのは、たしかにその通りです。しかし、だからといって、「差別煽動表現は規制されてはならない」とする考え方には、私は到底賛同できません。

「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」と言う人は、大きな誤解をしています。つまり、それは「暴力を表現すること」と「暴力で表現すること」は、別のものであるということです。

表現の自由が人権として憲法で保障されるのは、それが自己実現の価値(個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的な価値)と自己統治の価値(言論活動によって個人が政治的意思決定に関与するという、民主制に資する社会的な価値)を有するからです。そして、それは究極的に個人の尊厳を確保することを目的とするものです。そうだとすると、セックスや暴力を描写した創作表現といった「暴力を表現すること」は、「人間の生」を描く上で時には必要になるものですから(もっとも、それが暴力性を帯びたものであることは否定できません。したがって、表現するに際して細心の注意を払う必要があります。そして、それは表現者としての矜持です。)、自己実現の価値を有するものであり、それゆえに表現の自由として保障すべきであるといえます。しかし、人種・民族差別表現や性差別表現といった「暴力で表現すること」は、個人の尊厳を踏みにじる暴力そのものにほかならず、自己実現の価値を有するものであるとは到底いえません。したがって、「暴力で表現すること」は、「暴力を表現すること」と異なり、その自由を表現の自由として保障すべきではありません。先にも述べたように、「暴力で表現すること」は、個人の尊厳を踏みにじる暴力そのものにほかならないのですから、その自由を守ることは、表現の自由を守るどころか、むしろ表現の自由の価値を傷つけ、表現の自由を死に至らしめることになります。

以上で、「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」という言説が、「暴力を表現すること」と「暴力で表現すること」を混同した誤解に基づくものであることがお分かりいただけたかと思います。しかしながら、それでもまだ「セックスや暴力を描写した表現の自由を守るために、差別煽動表現は規制されてはならない」と言う人は納得せず、「たとえ『暴力を表現すること』と『暴力で表現すること』が別のものであるとしても、規制されるべき差別煽動表現の定義が曖昧であれば、保障されるべきセックスや暴力を描写した表現の自由も規制されかねない。だから、やはり差別煽動表現は規制されてはならない」と言うかもしれません。たしかに、規制されるべき差別煽動表現の定義が曖昧であれば、保障されるべきセックスや暴力を描写した表現の自由も規制されかねないというのはその通りです。しかし、そこで問題なのは、(規制されるべき差別煽動表現の)定義の明確性であって、差別煽動表現が表現の自由の保障の外にあると解することが問題なのではありません。そうだとすると、定義の明確性の問題を持ち出して差別煽動表現が表現の自由の保障の外にあることを否定するのは、論点のすり替えです。そのような論点のすり替えをしてまで差別煽動表現の規制に反対する人は、つまるところ差別や暴力の自由を守りたいということなのでしょうか。残念ながら、そう思わざるを得ません。それとも、まさかセックスや暴力を描写した創作表現と差別煽動表現は同じものだとでも言うのでしょうか。もしそう言うのならば、それは創作表現に対する冒涜です。

私は「セックスや暴力を描写した表現の自由」を守りたいと思います。だからこそ、私は決して差別煽動表現を許しません。