あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

「日本はいつまで謝罪し、反省し続けなければならないのか」という問いは、ナンセンスである。

日帝による侵略戦争や植民地支配に関して、日本でしばしば言われるのが「日本はいつまで謝罪し、反省し続けなければならないのか」という言説です。おそらく、このように考えている日本国民は少なくないでしょう。

しかしながら、私が思うに、「日本はいつまで謝罪し、反省し続けなければならないのか」という問いはナンセンスです。

「日本はいつまで謝罪し、反省し続けなければならないのか」と問う人は、「謝罪し、反省すること」の意義を誤解しています。「謝罪し、反省すること」は、過去の過ちを忘れるためにするものではなく、過去の過ちを記憶し、同じ過ちを繰り返さないためにするものです。そうであれば、「謝罪し、反省すること」には、そもそも「いつまで」などという期限はありません。つまり、過去の過ちを記憶し、同じ過ちを繰り返さないためには、謝罪と反省の意を明確に示し続けることが必要だということです。そして、それは決して被害者のためにするものでありません。また、多くの日本国民は謝罪と反省の意を明確に示し続けることを「不名誉」なことだと思っているのでしょうが、それは決して「不名誉」なことではありません。むしろ、過去の過ちを忘れ、あるいは過去の過ちを正当化することに腐心する態度こそ「不名誉」だといえます。

日帝による侵略戦争や植民地支配に関して、日本が謝罪と反省の意を明確に示し続けることが必要であるとして、それでは具体的にどのような形で日本が謝罪と反省の意を明確に示し続けるのがよいでしょうか。思うに、「謝罪し、反省すること」の意義が、過去の過ちを記憶し、同じ過ちを繰り返さないためにする点にあることに鑑みれば、日本は国家レベルで、日帝による侵略戦争や植民地支配という「加害の歴史」を記憶する「場」を設けるべきです。日本には、例えば国立広島原爆死没者追悼平和祈念館や国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館といった、国家レベルでの「被害の歴史」を記憶する「場」はあります。しかし、一方で国家レベルでの「加害の歴史」を記憶する「場」は皆無といえます。本当に今の日本が戦前の日本に対する徹底した反省の上に成り立っている「平和主義国家」であるならば、国家レベルでの「加害の歴史」を記憶する「場」があってしかるべきです。

もっとも、日本が謝罪と反省の意を明確に示し続けたとしても、同時に日帝による侵略戦争や植民地支配を美化し正当化するという矛盾した態度をとってしまっては、元も子もありません。日本のマスメディアや国民は、しばしば「日本がいくら韓国に対して謝っても、彼らは、いつまでも謝罪や賠償の要求を繰り返す」などと、まことしやかに語ります。しかし、それは誤りです。韓国にいつまでも謝罪や賠償の要求を繰り返させているのは、ほかならぬ日本です。つまり、日帝による侵略戦争や植民地支配を美化し正当化するという、謝罪と矛盾した態度をとることで、自ら謝罪を反故にしているのは、ほかならぬ日本なのです。それが分かっていれば、「謝罪疲れ」などという馬鹿げたことは言えないはずです。

「日韓関係」については、「未来志向」ということが盛んに言われますが、過去がなければ現在もありませんし、未来もありません。そうであれば、未来志向の関係を構築する上で、日本が過去の負の歴史と向き合い、これを反省し克服する(誤解のないよう付言しますが、「反省し克服する」することは、「忘れる」ことではありません)ことは、決して避けては通れないのです。そして、それは「日韓関係」の未来志向の関係を構築するためだけではなく、日本帝国主義と決別し、真の民主化を実現するという、私たち日本の人民の未来にとっても必要なことなのです。