葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「国民性」という概念を用いて「日本における差別」を語ることの危うさ

日本社会に差別が蔓延する理由として、「国民性」という概念を持ち出す人がいます。

おそらく、それに賛同する人も少なくないでしょう。

しかし、私はそのように「国民性」という概念を安易に持ち出すことには賛同できません。思うに、そこでいう「国民性」が「国民の素質」を意味するのであれば、それは「個人」を蔑ろにする間違ったものであり、「問題の本質」を見誤るものであるといえます。

日本社会に差別が蔓延するのは、「個人」を無視した「国民性」などではなく、国家があたかも差別に加担することが「国民の条件」であるかのような「空気」を醸し出し、「国民」を差別へと駆り立てるからです。つまり、「国民」という「束ねられる側」ではなく、「国家」という「束ねる側」に由来する問題だということです。もし「国民」たる人民に非難されるべき点があるとすれば、それは「国民性」なるものを備えている点ではなく、「国家」が醸し出す「空気」に抗わずに易々と差別加担へと動員されてしまう点でしょう。もっとも、そうであれば「国民」たる人民は、自らが「国民」であることの危うさに自覚的であるべき(もちろん、これは「国民」として束ねられている私自身についても言えることです)なのですが、残念ながらその点に無頓着な「国民」が少なくないようです。

そもそも「国民」という概念は、「同化と排除」の機能をもつ暴力的なものです。そうであれば、たとえ日本社会を批判する文脈で用いるのであっても、「国民性」という暴力性を帯びた概念を安易に用いることは厳に慎むべきです。

なお、くれぐれも誤解しないでいただきたいのですが、私は決して「日本社会に差別が蔓延する理由として『国民性』という概念を持ち出すのは、日本人に対するヘイトスピーチだ」などという馬鹿げたことを言いたいのではありません。私が言いたいのは、「国民性」という概念を用いて「日本における差別」を語ることの危うさです。先にも述べましたが、日本社会に蔓延する差別に抗する皆さんは、どうか「問題の本質」を見誤らないでください。