葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「内地」という言葉

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この記事は大変示唆に富んでおり、岸政彦先生のおっしゃることにも異存があるどころか、むしろ感銘を受けました。

しかしながら、「内地」という言葉がためらいなく使われている点だけは、どうしても違和感を禁じ得ません。

誤解のないようにお断りしておきますが、私は沖縄や北海道で「内地」という言葉が日常的に使われていることを問いたいのではありません。私は、「“内地”の人間」が「内地」という言葉をためらいなく使うことが、はたして妥当であるかを問いたいのです。

そもそも「内地」とは、歴史的には(大日本帝国に占拠されていた)朝鮮や台湾、南洋諸島などといった「外地」に対する大日本帝国の「本土」を意味する言葉です。もっとも、現在の沖縄や北海道では「内地」という言葉の差別性は忘却されて使われているのかもしれません。しかし、だからといって「内地」という言葉に差別的ニュアンスがないと言うのは、「支那という言葉は差別用語ではない」と言うのと同じようなものであると思います。

そうはいっても、たしかに沖縄や北海道では、「内地」という言葉は日常的に使われているでしょう。しかし、だからといって「“内地”の人間」が「内地」という言葉をためらいなく使うことが妥当であるとは、私は思いません。沖縄の人に沖縄県外を「内地」と呼ばせたのは、いったい誰でしょうか。「内地」という言葉をためらいなく使う「“内地”の人間」にとって、いったいいつまで沖縄は「外地」なのでしょうか。上記記事中で岸先生の著書の「沖縄の人々が内地を区別しているのではなく、沖縄という地域が、日本という国の中で、区別されているからである。あるいは、『差別』と言ってもよい。」という一文が引用されていますが、沖縄の人に沖縄県外を「内地」と呼ぶのは、まさに「沖縄という地域が、日本という国の中で、区別(差別)されているから」ではないでしょうか。そうだとすれば、「“内地”の人間」が「内地」という言葉をためらいなく使うことは、やはり「差別」に無頓着であると言わざるを得ません。

もっとも、沖縄が「外地」ではないからといって、私は「沖縄は当然に日本である」というつもりはありません。なぜなら、沖縄が「日本」であるか否かは、沖縄の人が決めることだからであり、私のような「ヤマト」の人間が沖縄が「日本」であるか否かを語るのは、それこそ岸先生のおっしゃる“沖縄を「勝手に語る」”ことであると思います。

「内地」という言葉をためらいなく使う「“内地”の人」は、どうか「内地」という言葉の意味を今一度よく考えてみてください。そしてまた、できれば「内地」という言葉を日常的に使う沖縄や北海道の人にも、「内地」という言葉の意味を今一度考えていただければと思います。たとえ「内地」という言葉の歴史的な意味が忘却されたとしても、歴史そのものが消えてなくなるわけではないのですから。