葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「ヘイトスピーチ」と「オタク」について

巷で繰り広げられている「ヘイトスピーチ」と「オタク」の関係についての議論は、どうも私にはいささか「雑な議論」に思えます。

たしかに、オタク趣味者が民族差別的な言動をとったからといって、それを直ちに「オタクの問題」とするのは間違いでしょう。

しかし、オタク趣味者が「アニメや漫画の表現の自由を守るためには、ヘイトスピーチの自由も守らなければならない」と主張し、ヘイトスピーチを許容する態度をとることは、紛れもなく「オタクの問題」です。しかるに、それさえも「オタクの問題」と捉えないのであれば、それはあまりにも「無責任」だといえます。思うに、オタク趣味のためにヘイトスピーチを許容するオタク趣味者の態度を「オタクの問題」として批判することは、決して「オタクに対する偏見」によるものなどではありません。なぜなら、むしろオタク趣味者こそ、オタク趣味の自由を守るためにも、(オタク趣味のために)ヘイトスピーチを許容するオタク趣味者の態度を「自己批判」すべきだからです。

もっとも、「オタク」をコミュニティとして捉え、そのコミュニティが総体的に民族差別に対して寛容であるならば、それを「オタクの問題」として論じることは間違いではないと思います。例えば、「オタク」が被差別グループだというのなら(なお、私は「オタク差別」の存在には懐疑的です。しかし、客観的な問題としての「オタク差別」はなくても、主観的な問題としての「オタク蔑視」はあると思います。)、なぜ差別の愚劣さを知りながら民族差別的な言動をとるのか、というように。つまり、もし「オタク」という属性が被差別的属性であるなら、「オタク」だからこそ差別に対して厳然とした態度をとるべきでしょうが、そのように「オタク」という属性を問題とする点で、「オタクの問題」だということです。また、「オタク的コンテンツ」が内包する性差別的要素を「オタクの問題」として論じるのも間違いではありませんが、その点の議論については本稿では割愛いたします。

他方、「日本国民の差別性」を「オタクの差別性」に矮小化するのも、これもまた間違いです。もっとも、これに対して「『人間の差別性』を『日本国民』の差別性に矮小化するのも間違いだ」という人がいるかもしれませんが、それは誤解です。なぜなら、「日本国民の差別性」は生来的なものではなく、「日本」という国民国家によって作られたものなのですから。

とまれ、私は一人のオタク趣味者として、「オタク的表現」の自由を守るためにも、表現の自由の価値を傷つけるヘイトスピーチを断固として許しません。