葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日本は民主主義国家である」と信じて疑わない「日本国民」に、伝えたいこと。

おそらく、「日本国民」の多くが「日本は民主主義国家である」と信じて疑わないでしょう。たしかに、日本は政体として代表民主制を採用していますから、その限りでは「日本は民主主義国家である」と言えるかもしれません。しかし、民主主義の本質に鑑みると、私は「日本は民主主義国家である」と言い切ることに、どうしても躊躇いを覚えます。

民主主義は、「治者と被治者の自同性」すなわち治めるものと治められる者が同一であることをその本質としますが、はたして日本では、「治者と被治者の自同性」が実現されているといえるでしょうか。この点に関しては、たしかに「日本国民」に限って言えば「治者と被治者の自同性」が実現されているといえるでしょう。しかし、他方で「日本国民」と同じように日本という国で生まれ、「日本国民」と同じように日本という国で生活し、「日本国民」と全く同じ義務を負わされてるにもかかわらず、「『日本国民』ではない」というただそれだけの理由で治者の地位を奪われている被治者が存在することを、決して看過してはなりません。つまり、日本では未だ完全に「治者と被治者の自同性」が実現されてはおらず、それゆえに「日本は民主主義国家である」と言い切ることはできないのです。

私自身は、日本という国で生まれ、日本という国で生活している「日本国民」です。しかし、だからといって、私の「ルーツ」は日本だけではありません。私は、日本の他に韓国を「ルーツ」とする人間です。そのような私が「日本国民」であるのは、父親が「日本国民」だという、ただそれだけのことであって、それ以外に、私と同じように日本という国で生まれ、日本という国で生活している「韓国を『ルーツ』とする人」と異なる点はありません。それなのに、親が「日本国民ではない」という、ただそれだけの理由で治者の地位を奪われている人が、この国には存在するのです。はたしてそのような国が、真の「民主主義国家」であるといえるでしょうか。

もっとも、そうだからいって「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと言うのも問題です。なぜなら、今日までの「日本国民」は、「同化と排除の論理」に貫かれた概念であるからです。それゆえ、今日までの「日本国民」の概念を、「共生の論理」に基づき新しく構築しなおすことなしに「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと言うことはできません。つまり、「治者の地位を得たければ『日本国民』になればよい」などと軽々しく言うのは、マジョリティの傲慢以外の何ものでもないということです。

“3.11”以降、「民主主義」という言葉がよく聞かれるようになりました。もちろん、それ自体は歓迎すべき変化だと思います。しかし、民主主義を唱える人々の口から発せられる「民主主義は主権者である国民が作る」という言葉を聞いてしまうと、どうしても彼らの唱える「民主主義」に疑問を禁じえません。たしかに、「民主主義国家」においては主権は国民にあるでしょう。しかし、主権が国民にあったとしても、治者ではない被治者が存在するのであれば、民主主義が完全に実現されているとはいえません。民主主義を完全に実現するには、「治者と被治者の自同性」を回復するという「縦の関係」で民主化するだけではなく、「治者」ではない「被治者」を生み出すようなシステムを変えるという「横の関係」で民主化することも必要なのです。

安倍政権倒閣の気運が高まる今、安倍政権を倒し真の民主主義を実現するためにも、いま改めて「民主主義」の意義を問い直してみませんか?