あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

「知」は、薬にもなれば毒にもなる。

「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」ということが、しばしば言われます。たしかに、私も主に読書を通じて差別主義を克服するための知見を得てきましたから、差別主義を克服するために「知ること、学ぶこと」が有益であることは否定しません。しかしながら、私は「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と言い切ることには、どうしても抵抗感を覚えます。

「知」が差別主義の克服に貢献してきたのは事実ですが、しかし「(国家)権力」と結びつくことで、人間を選別淘汰したり、抑圧したりするための「装置」としての役割を果たしてきたのもまた事実です。つまり、「知」は薬にもなれば毒にもなるのです。そして、残念なことに、「(国家)権力」によって施される教育では、毒である(もっとも、それは弱毒化されたものですが、そうであって蓄積されれば人間を「死」に至らしめるでしょう。)「知」が与えられることもしばしばです。しかるに、「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と主張する人は、「知」の毒についていささか無頓着ではないでしょうか。差別主義者は、たしかに「人類の普遍的な知」を共有してはいないでしょう。しかし、彼らも「(国家)権力と結びついた知」に関しては、これを共有しているのです。それにまた、(「差別主義者に対する差別」だなどと言うつもりは、もちろんありませんが)「『知性と教養のない人間』が差別主義者である」と言ってしまうことは、それこそ「人間を選別淘汰するためのモノサシ」として「知」を用いるという、「知」の誤った使い方ではないでしょうか。

さて、差別主義を克服するために「知(もちろんそれは、人類の普遍的な知です)」へのアクセスが有益であるとして、それでは差別主義者が「知」へアクセスすることを困難ならしめているのは、いったい何(誰)でしょうか。まさか、「差別主義者は知性と教養を欠いているから、『知』にアクセスできない」などとでも言うのでしょうか。それは、「知性を得られないのは知性を欠くからだ」という循環論法であり、また、あまりにも「木を見て森を見ず」だといえます。

繰り返しますが、決して私は、差別主義を克服するために「知ること、学ぶこと」が有益であることは否定しません。しかし、「知ろうとしない、学ぼうとしない」人を「知性と教養」というフィルターを用いて“除去”することで、問題は解決するのでしょうか。「知ろうとしない、学ぼうとしない」のは「自己責任」だといって“切り捨てる”ことで、問題は解決するのでしょうか。もちろん、「差別主義者」が「差別主義者」たりうるのは自由な人間の主体的な選択ゆえ、というのもあるでしょうが、「差別主義者」を「差別主義者」たらしめた「状況」も決して看過してはなりません。私たちは、そのような「状況」を変えるためにこそ「知」を用いるべきです。

「学問」が差別主義を克服するために有益であることは、もちろん私も否定しませんが、それはあくまでも「方法」の一つに過ぎません。もし「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と主張する人が「知性と教養は学問を通じてしか得られない」と考えているとしたら、それは誤りです。もっとも、「学問」が差別主義を克服するために有益であることは、たしかにそのとおりですから、むしろ「学問」が階級的に独占されてしまっている現状を打破すべきだといえます。

おそらく、私も、「知性と教養のある人間は、差別主義者にはならない」と主張する人も、「差別主義を克服するために『知ること、学ぶこと』が有益である」という結論は共有しているのだと思います。そうであればなおのこと、「差別主義者」を切り捨てるためではなく、一人でも多くの人が「知ること、学ぶこと」ができるように「知性」を働かせるべきであると思うのです。

 

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