あしべの自由帳

芦部ゆきとが言いたいことを書き綴るだけの、そんな「自由帳」です。

ヘイトスピーチを肯定するための詭弁は、もうやめよう。

「私はヘイトスピーチには反対だ。だが、ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる。だから、表現の自由を守るためにも、ヘイトスピーチの自由を認めるべきである」と言う人がいます。もしかすると、このような言説を「正論」だと思う人も少なくないかもしれません。しかし、それはヘイトスピーチを肯定するための詭弁でしかありません。

すなわち、①「ヘイトスピーチは許されるか(ヘイトスピーチの自由はあるか)」という問題と、②「ヘイトスピーチが許されないとして、その許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」という問題は、それぞれ別個のものです。しかるに、①と②の問題を一緒くたにして、②の問題において公権力の恣意性の働くおそれがあるから、ヘイトスピーチを許すべきである(ヘイトスピーチの自由はある)とするのは、つまるところヘイトスピーチを肯定するための詭弁であると言わざるを得ません。

また、「ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる」というのも誤解です。つまり、「許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」は、民主的手続によって成立する法律によって決められます。そして、人権保障の見地から、法律には明確性が求められます。もし、法律が恣意的な公権力の行使を許すような(それとともに、表現の萎縮効果をもたらすような)不明確なものであれば、その法律は憲法に違反し無効です。②における議論は、まさしく恣意的な公権力の行使を許さないための議論なのです。このように、そもそも「許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めること」を許すような法律を制定することは憲法違反であって許されないのですから、「ヘイトスピーチが許されないとすると、許されないヘイトスピーチを公権力が恣意的に決めることになる」というのは、誤解なのです。もっとも、議会制民主主義を否定し、「許されない『ヘイトスピーチ』とはどのようなものであるか」は民主的手続によって成立する法律によっても決めることはできない、と言うのであれば、仕方がありませんが……。

そもそも、どうして「ヘイトスピーチは許されるか(ヘイトスピーチの自由はあるか)」という議論で、ヘイトスピーチが公権力によって規制される段階の話を持ち出して、結論的にヘイトスピーチを肯定するのでしょうか。「ヘイトスピーチを許さない」のであれば、なによりもまずは私たち自身が、私たちが許さないヘイトスピーチがどのようなものであるかを考えるべきです。それこそが、「自由」ということではないでしょうか。