あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることは「外国人参政権の実現」ではない。「完全な民主主義の実現」である。

「民主主義」は、「治者と被治者の自同性(治める者と治められる者が同一である)」をその本質とします(よく言われる「民主主義の本質は多数決である」というのは誤解です。)。そうだとすると、「日本」という国は、はたして「完全な民主主義国家」であるといえるのでしょうか。それというのも、「日本」という国では、被治者であるとして「日本国民」と全く同じ義務を負わされているにもかかわらず、治者ではないとして「民主主義」のプロセスから疎外されている人々――在日コリアンや在日台湾人が存在するからです。

いわゆる「日本における外国人参政権」の議論において、「大日本帝国時代に『日本国民』であった在日コリアンや在日台湾人の『日本国籍』を、敗戦後に日本政府が一方的に剥奪したのであるから、在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めるべきだ」ということが、よく言われます。私も、在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めるべきであると考えます。ですが、「在日コリアンや在日台湾人の『日本国籍』を、敗戦後に日本政府が一方的に剥奪したから」認めるべきだというのは、私は違うと思います。もちろん、「在日コリアンや在日台湾人の『日本国籍』を、一方的に剥奪した」責任は日本政府にあるでしょう。しかし、その点を強調することには、「排除の論理」と対を成す「同化の論理」を肯定する危うさがあります。そしてなにより、そもそも被治者として「日本国民」と全く同じ義務を負わされている在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることは、「治者と被治者の自同性」という「民主主義の本質」から本質から要請されるものです。決して、日本政府の「罪滅ぼし」として在日コリアンや在日台湾人に与えるべきもの、などではありません。

こうしてみると、「日本における外国人参政権」という議論そのものが、いささか不正確であることが分かるでしょう。在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることは、「外国人参政権の実現」ではなく、「完全な民主主義の実現」に他なりません。つまりは、在日コリアンや在日台湾人の参政権を認めることで、はじめて「日本」という国は「完全な民主主義国家」であるといえるのです。