葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「どんな言動がヘイトスピーチなのか分からない」という前に

「どんな言動がヘイトスピーチに該当するかなど分からない。いったい誰が、どんな言動をヘイトスピーチだと決めるのか」と言う人がいます。たしかに、ヘイトスピーチを規制する法令における「ヘイトスピーチ」の定義が明確性を欠くものであれば、「萎縮効果」を生じるのはその通りです。しかし、だからといって、「ヘイトスピーチをする自由がある」という考えには、私は到底賛同できません。

「どんな言動がヘイトスピーチに該当するかなど分からな」くても、どんな言動が他者の尊厳を傷つけるか想像することはできますよね。自らの言動が他者の尊厳を傷つけるものであるかどうか、誰よりも先ずそれを決めるのは私自身であり、あなた自身です。それこそが、「自由」ではないでしょうか。

「どんな言動が他者の尊厳を傷つけるものであるかなど分からない」というのは、言い訳に過ぎません。「どんな言動が他者の尊厳を傷つけるものである」か、私たちは、歴史から、他者の過ちから、そして自らの過ちから「学ぶ」(誤解のないようにお断りしておきますが、ここで私が言いたい「学ぶ」とは、ある種の「能力」を必要とするものではありません)ことができるはずです。しかるに、「学ぶ」ことを怠り、他者の尊厳を平気で傷つけるような言動をとり続けるのであれば、「表現の自由の擁護」にかこつけて差別を温存したいだけであると思われても仕方ないでしょう。

誤解のないよう念のため言いますが、私は「ヘイトスピーチの定義」云々という、ヘイトスピーチが法規制される段階での話をしたいのではありません。私がしているのは、それよりも前の段階の話です。

公権力によってヘイトスピーチの定義を決められる前に、どんな言動が他者の尊厳を傷つけるか想像し、どんな言動が他者の尊厳を傷つけないか自ら決める。それこそが、「表現の自由」を守りたい私たちが、なによりもまずしなければならないことであると、私は思います。