あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「魔術〈エロティシズム〉使い」に大切なこと

エロティックな創作表現を擁護するためにしばしば援用される言説に、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というものがあります。

たしかに、エロティックな創作表現を現実の性犯罪と安易に結びつけるような(エロティックな表現に対する)批判的言説には、私も憤りを覚えます。

しかし、「フィクションは現実に影響を及ぼさない」というのも、それは違うと思います。つまり、たとえフィクションの影響によって「現実」において行動を起こさないにしても、フィクションが「現実」を生きる私たちの価値観の形成に、良くも悪くも影響を及ぼすことは、やはり否定できないと思うのです。

エロティックな創作表現と性犯罪の関係について言えば、たとえエロティックな創作表現の影響によって現実に性犯罪を実行しなかったとしても、エロティックな創作表現の影響によって性犯罪を許容するような「価値観」を持ってしまう危険は十分にある、ということです。

もちろん、性犯罪を許容するような「価値観」を持つことのみを理由として刑罰を科されるようなことがあってはなりません。また、エロティックな創作表現が性犯罪を許容するような「価値観」の形成に寄与する危険があるからといって、それを公権力をもって安易に規制すべきではありません。しかし、そうはいっても、やはりエロティックな創作表現が内包する危険から目を背けてはならないのであり、それはエロティックな創作表現を愛好する者の「責任」であると思います。

そもそも、「現実」を生きる私たちの価値観の形成に影響を及ぼさないようなフィクションに、どれほどの意味があるでしょうか。思うに、エロティックな創作表現は「人間の生」について考える上で十分に意義のあるものです(なお、「十分に意義のあるもの」か否かを判断するために「高尚なアートか、それとも低俗なポルノグラフィか」などという“曖昧な”物差しを用いるつもりは毛頭ありません。)。さらにいえば、エロティックな創作表現は、生き辛いこの世界を生きるための、いわば「魔術」です。ただ、このエロティシズムという「魔術」は、時として私たちを呑みこみ、人間疎外を惹き起こしてしまう危険をはらむものです。そのような危険な「魔術」を使う者だからこそ、エロティックな創作表現を愛好する私たちは、「魔術」の取り扱いに慎重でなければなりません。

私は、エロティックな創作表現を愛好する者だからこそ、エロティシズムという魔力の危険から目を背けずにいたいと思います。