あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「みんな平等に貧しく」ではなく、みんな平等に人間として生きることができるようになればいい。

この国のかたち 3人の論者に聞く
中日新聞プラス http://chuplus.jp/paper/article/detail.php?comment_id=435172&comment_sub_id=0&category_id=562

 

当該記事における上野千鶴子先生の発言には少なからぬ批判が寄せられていますが、思うに上野先生の発言の問題点は、大まかに言って①「日本人は多文化共生に耐えられないでしょう」という点と、②「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」という点です。

①の点に関しては、日本では既に多くの外国籍の人々が働き、生活しているという「現実」に鑑みれば、排外主義と結びつく多文化共生を放棄するような言説に私は到底賛同できません。そして、①の点こそ、上野先生の発言の最大の問題だと思いますが、この点に関しては既に多くの批判が試みられています*1ので、詳細な議論は他の論稿に譲り、本稿では②の点に関して、私なりに批判的に考えてみたいと思います。

たしかに、「(安倍政権の)一億人維持とか、国内総生産(GDP)六百兆円とかの妄想は捨て」るべきというのは上野先生のおっしゃる通りでしょうし、「再分配機能を強化す」べきという意見には、私も基本的に賛同します。しかし、だからといって「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」というのは、どうしても違和感を覚えてなりません。

思うに、私が上野先生のそのような言説に違和感を覚えるのは、「貧困」を肯定的に扱っているからです。もちろん、私も「人間疎外」を惹き起こすような「経済成長至上主義」には反対です。しかし、「貧困」によって「社会的存在としての人間」として生きることさえ困難な状況におかれている人が存在するのが、日本の「現実」です。しかるに、このような「現実」を軽視して「貧困」を肯定的に語るのは、「食うに困らない貴族の戯言」と受け取られても仕方がないでしょう。こんなことを言うと、「人口減少と衰退の結果としての貧しい社会という、“来るべき現実”を直視せよ」と批判されるかもしれません。ですが、そのような「現実肯定」は、残念ながら「悪しきニヒリズム」への逃避にすぎないのではないでしょうか。そして、そのような「悪しきニヒリズム」への逃避は、ブルジョア・マジョリティーの「特権」だといえるのではないでしょうか。たしかに、「現状」を解釈すれば、「人口減少と衰退の結果としての貧しい社会」が“来るべき現実”なのかもしれません。しかし、肝心なのは「世界」を解釈することではなく、それを変革することです。

もっとも、「みんな平等に……貧しくなっていけばいい」というのは、「99%が貧困に喘ぎ、1%が豪奢を極める現実」に対する皮肉なのかもしれません。しかし、「貧困」を肯定的に扱ったうえで上野先生のおっしゃる「社会民主主義」を貫徹することなど、はたして可能なのでしょうか。すなわち、「貧困」を肯定した「社会民主主義」体制の下では、「みんな平等に貧しくなる」など絵空事であり、「1%が豪奢を極めることができず慎ましく生きる(たしかに、相対的には「貧しくなった」のかもしれませんが)一方、99%は『社会的人間』として生きることを放棄せざるを得ず、やがて死に至る」というのが“来るべき現実”ではないでしょうか。

もちろん、上野先生が「1%の富裕層」のよる「富の独占」を批判しているということは、私も理解しています。ですが、「過剰な豊かさ」と、そのような過剰を生み出すシステムが問題なのであって、「豊かさ」そのものが問題ではないでしょう。つまり、目指すべきは「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」ではなく、「みんな平等に、緩やかに豊かになっていけばいい」ということです。「そんなのは絵空事だ」と言われるかもしれませんが、「みんな平等に貧しくなる」というのも所詮は絵空事なのですから、どうせ同じ絵空事なら、私は後者を選びます。

おそらく、上野先生の言説も、それを批判する私の言説も、根本的にはそれほど違いはないはずです。しかし、やはり上野先生には「みんな平等に貧しくなればいい」などと「貧困」を肯定せずに、「みんな平等に人間として生きることができるようになればいい」と言っていただきたかった、「表現上のニュアンスの問題」かもしれませんが、それでもやはり「言論人」として、もっと「言葉」を丁寧に扱っていただきたかった、私はそう思うのです。残念ながら、今回の上野先生の発言はいささか「無神経」であり、多くの人の共感を得られるものではないと言わざるを得ないでしょう。