葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

私は権力による不当な表現規制には反対だ。だが、ヘイトスピーチは絶対に許さない。

漫画やアニメなどといった創作物、その中でもとりわけエロティックな表現の規制に反対する人の中には、「漫画やアニメなどの『表現の自由』を守るためには、ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と考える人が見受けられます。

私は、権力による不当な表現規制には反対する立場です。ですが、「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」という言説には、到底賛同できません。

果たして、エロティックな表現を守るためには「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と主張する人は、エロティックな表現とヘイトスピーチを同列のものと考えているのでしょうか。もしそうであるならば、なぜ憲法が「表現の自由」を人権として保障するのか、ちょっと考えてみてください。

憲法が「表現の自由」を人権として保障するのは、表現の自由が、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値である「自己統治の価値」と、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値である「自己実現の価値」を有しているからであり、そしてそれは、究極的には「個人の尊厳」を確保するためのものだといえます。しかるに、「ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」と考えるのは、人間の尊厳を踏み躙る、いわば「暴力」であるヘイトスピーチが、自己の人格を発展させるどころかむしろ退廃堕落させるものであることに鑑みれば、憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨に悖るものと言わざるを得ないでしょう。

他方、創作におけるエロティックな表現は、「人間の生」を描く上で重要な役割を果たすものといえます。そして、これまで生み出されてきた数々の作品によって、そのことが証明されていると言えるでしょう(私はここで、「高尚な芸術作品だけが、憲法で保障される「表現」としての資格を有する」などと言うつもりは毛頭ありません。なぜなら、憲法で保障される「表現」か否かにおいて、「高尚」か「低俗」かなどということは、そもそもナンセンスだからです。)。そうだとすれば、エロティックな表現も「自己実現」の価値に沿うものであって、憲法によってその表現の自由が保障されると考えるのが妥当です。

こうして、憲法が「表現の自由」を人権として保障した趣旨から考えてみれば、エロティックな表現とヘイトスピーチが同列のものではないことがお分かりになるでしょう。ですから、「漫画やアニメなどの『表現の自由』を守るためには、ヘイトスピーチを撒き散らす自由であっても、『表現の自由』として保障されなければならない」などと考える必要などないのです。

もっとも、「ヘイトスピーチ規制の濫用によってエロティックな表現の自由が不当に制約される」ことを懸念する人もいるでしょう。しかし、それは規制法令の明確性の問題であって、ヘイトスピーチを「表現の自由」として保障しないことそれ自体の問題ではありません。また、規制法令の明確性は、たとえば児童ポルノ禁止法といったエロティックな表現を規制する法令においても問題となることであって、なにもヘイトスピーチ規制だけに限った話ではありません。そうだとすれば、「ヘイトスピーチ規制の濫用によってエロティックな表現の自由が不当に制約される」という懸念は、ヘイトスピーチを「表現の自由」として保障しないことを否定する理由とはならないでしょう。

そもそも、ヘイトスピーチ規制による表現の自由への影響を懸念しヘイトスピーチを許容する人は、どうしてヘイトスピーチを許容するのではなく拒絶することで表現の自由を守ろうと考えないのでしょうか。表現の自由の価値を損ねているのは、まぎれもなくヘイトスピーチです。そうだとすれば、ヘイトスピーチを拒絶することこそが、本当の意味で表現の自由を守ることなのではありませんか。

私は、権力による不当な表現規制には反対です。ですが、ヘイトスピーチは絶対に許しません。それは、ほかでもない、表現の自由を守るためにです。