あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

本当に「選挙はベターチョイス」なのだろうか

しばしば見聞する言説に、「選挙はベターチョイス」である、というものがあります。

たしかに、現実問題として「ベストチョイス」することは大変難しいかもしれません。

しかし、やはり私は、「選挙はベターチョイス」である言説に疑問を覚えます。

どうして私たちは、「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっているのでしょうか。

そうして、「選びようがない」ことを言い訳にして、「根本的な解決」を先送りしてきた結果が、今の「惨状」(もっとも、もしかすると「惨状」だと思っていない人も少なくないのかもしれませんが)なのではないでしょうか。

おそらく、私たちが「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっているのは、「根本的に解決しなければならない問題」から目を背けてしまっていることのほかに、「民主主義=代議政治」であるという「固定観念」にとらわれてしまっていることによるものであると思います。

代議制民主主義はあくまでも民主主義のひとつの形態にすぎないのであって、それが民主主義のすべてではありません。そしてまた、選挙は主権行使のひとつの機会にすぎないのであって、それが主権行使のすべてではありません。

はたして、いつまでも私たちは「ベターチョイス」しかできない現状に甘んじてしまっていてよいのでしょうか。

「政治」は政治家や政党だけのものではありませんし、議会だけで行われるものでもありません。「政治」は、本来的には紛れもなく主権者たる「人民」すなわち私たちのものです。

そうであれば、主権者として、「ベターチョイス」しかできない現状に甘んずることなく、「ベストチョイス」するためにできることを一つひとつやっていくべきです。しかるに、「政治など私のものではない」と主権者であることを放棄するのであれば、それは自らを隷属的な地位に陥らしめることになるのですが、本当にそれでいいのですか。

もっとも、「主権者」に関していえば、私はこの言葉を使うことに戸惑いを覚えます。というのも、おそらく「日本は民主主義国家である」と言って憚らない人は少なくないでしょうが、残念ながら日本において民主主義が貫徹されているかどうかは、大いに疑わしいからです。すなわち、「治者と被治者の自同性」が民主主義の本質であるにもかかわらず、日本では制度上の理由によって(もっとも、それは制度上の理由というよりも、むしろ国家の存立に関わるイデオロギーによるものなのかもしれません)、「被治者」であるのに「治者」ではない市民が生み出されてしまっている、ということです。

「ぼくらの民主主義」を声高に唱えるのは結構ですが、その「ぼくらの民主主義」が「被治者」であるのに「治者」ではない市民が生み出すような欠陥制度であることを、やはり忘れてはならないと思います。