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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「オタク道精神」についての私論

昨今の「萌え絵」批判に関しては、私もオタクのひとりとして、オタク諸氏が自分の好きなものを批判されて憤る気持ちもよくわかります。例えば、函館市電の「鉄道むすめ」である松風かれんさんが好きな私としては、「駅乃みちか騒動」で「鉄道むすめ」というプロジェクト自体が悪く言われるのには、正直あまり良い気分ではありません。

しかしながら、「萌え絵」批判に対するオタク諸氏の態度にも、私は疑問を抱かざるをえません。はたして、オタク諸氏が本当に守りたいものは、いったい何なのでしょうか。

私が漫画やアニメなどの「創作表現の自由」を守りたいのは、なによりも(受け手あるいは送り手として)「創作物」を自由に楽しみたいからです。「創作物」を自由に楽しむことさえできれば、たとえ「オタク趣味」が世間一般に受容されなくても一向に構いません。ですが、どうも私には、昨今のオタク諸氏は「オタク趣味」が世間一般に受容されることで自分自身も世間一般に認められたい(ある種の「ステータス」を得たい)がために、「創作表現の自由」を主張していると思えてならないのです。

思うに、ここはひとつ、「世間一般の価値観に惑わされることなく、自分の好きなコト・モノを自由に楽しむ」という「オタク道精神」の原点に立ち返ってみてはどうでしょうか。「世間一般の価値観に惑わされることなく」といっても、決して私は「他人の尊厳を踏みにじってもよい」などと言いたいわけではありません。私が言いたいのは、「オタク趣味」を世間一般に受容させることに腐心して、本当に大切なものを失うようなことがあってはならない、ということです。

「創作表現の自由」を全うするためには、時として「社会道徳」に背くことも必要です。そうであれば、「社会道徳」が支配する公衆スペースにおいて「創作表現の自由」を貫くことができないのは、理の当然だといえます(誤解なきように言っておきますが、だからといって「萌え絵」が公衆スペースから全面的に排除されてもよい、などと言うつもりは毛頭ありません。)。また、「表現」が「創作表現」ではなく「広告表現」であれば、それはなおのことでしょう(表現の自由憲法上保障される趣旨に鑑みると、「創作表現の自由」についての議論が「広告表現の自由」にそのまま妥当するわけではありません。)。そして、「表現」が「エロティックな表現」であれば、「社会道徳」が支配する公衆スペースにおいてその自由を貫くことなどとうていできないの、言うまでもないでしょう。なぜなら、エロティシズムは、「社会道徳の光」の下で生き永らえることなどとうていできないからです。

「エロティックな表現」も当然のごとく「表現の自由」が保障されるものであると、私は考えています。なぜなら、「エロティックな表現」は「人間の生」を描く上で時には必要であり、そうだとすると、それは(表現の自由を支える価値である)「自己実現」に資するものであるといえるからです。

もっとも、先にも述べたように、エロティシズムは、「社会道徳の光」の下で生き永らえることなどとうていできないものです。しかるに、昨今のオタク諸氏は、「エロティシズムの道徳化」を志向しているように見受けられるのですが、しかしながら「エロティシズムの道徳化」は、エロティシズムをやがて死に至らしめます。

そうであれば、「エロティックな表現」をも愛好する我々は、そろそろアンダーグラウンドへ還るべきなのかもしれません。他でもない、我々オタク自身の幸せのために。