読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「地方蔑視」と「民族差別」についての試論

いわゆる「地方蔑視」に批判的ではない人が、民族差別に反対する人の中にもしばしば見受けられます。どうやら彼らは、「ヘイトスピーチ」の定義に該当しないから許される、と考えているふしがあるように思われます。また、彼らは、「地方蔑視」に批判的ではない彼らの態度に対する批判に対して、「『田舎の停滞性や閉鎖性』を批判できなくなってしまうではないか」と反論するかもしれません。

たしかに、彼らが言うように「ヘイトスピーチ」の定義に照らせば、「地方蔑視」はヘイトスピーチそのものではないでしょう。しかし、私は、「地方蔑視」にはヘイトスピーチ、さらにいえば民族差別の根底にある思想に通じるものがあると考えています。

すなわち、それは日本帝国主義によるアジア侵略や植民地支配を支えた思想の一つである、「(アジア)停滞史観」に通じるものがある、ということです。こんなことを言うと「いい加減なこじつけだ」と批判されるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。たとえば、日本政府の沖縄政策は、沖縄を(文明化の)「遅れた土地」であると見る史観に支えられているのではないでしょうか。また、大日本帝国にとって「朝鮮」や「台湾」は、(「帝都」の対極という意味で)「究極の地方」だったのではないでしょうか。

このように、現在の沖縄問題や過去の(もっとも、未だ清算されてはいませんが)植民地問題の根底に横たわっているのは、「帝都>周縁」という「帝国主義的」な権力(暴力)構造です。そうして「地方蔑視」は、まさしくそのような権力構造によって生み出されたものであるといえるでしょう。つまり、「地方蔑視」の延長線上に、植民地に対する蔑視とそれによる植民地支配の正当化がある、ということです。

ところで、前述のように「地方蔑視」に批判的ではない人は、「地方蔑視」に批判的ではない彼らの態度に対する批判に対して、「『田舎の停滞性や閉鎖性』を批判できなくなってしまうではないか」と反論するかもしれません。しかし、そもそも「停滞性や閉鎖性」というのは、本当に「地方」固有の問題なのでしょうか。

たしかに、彼らが何を批判したいかは、私にもわかります。しかし、だからといってそれを「地方」固有の問題と捉えてしまうと、問題の本質を見誤ることになります。

思うに、ここで問われるべきは「地方」ではなく、(差別の根源である)「『イエ』的日本」です。しかるに、「『イエ』的日本」の問題を「地方」の問題に矮小化し、「地方」をスケープゴートにすることは、「『イエ的』日本」を解体するどころか、むしろ問題の本質を隠微し「『イエ』的日本」を温存する結果を招くのではないでしょうか。

民族差別の問題においては、「帝都>周縁(へ向かう権力という名の暴力)」という「帝国の論理」が問われなければならない――民族差別に反対する諸姉諸兄には、どうかこのことを認識していただきたいと思います。