葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

「日本政府による平和の少女像撤去要求問題」は、「表現規制問題」である。

慰安婦への支援事業 韓国に少女像の撤去促す方針 | NHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160813/k10010633561000.html

ソウルの日本大使館前に設置されている「従軍慰安婦平和の少女像」についてひとつ言えることは、この像は日本政府に対する韓国市民の「政治的表現」だということです。そしてそれは、あくまでも日本政府の戦争責任を問うものであって、昨今の日本における韓民族に対するヘイトスピーチのような人間の尊厳を踏みにじるものでは決してありません(従軍慰安婦日本軍性奴隷問題に関する日本政府の責任を問う声を「日本人に対するヘイトスピーチ」だなどと言う極右主義者の妄言には、到底賛同できません。)。

そうだとすれば、そのような韓国市民の「表現の自由」を、日本政府が外交的圧力を用いて間接的にではあるにせよ制約する権限など、いったいどこにあるというのでしょうか。すなわち、日本政府という〈権力〉が外交的圧力を用いて従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求することは、韓国市民の「表現の自由」に対する不当な侵害だということです。

したがって、「日本政府による従軍慰安婦平和の少女像撤去要求問題」に関しては、これを単なる「日韓間の政治・外交問題」としてではなく、「日本政府による韓国市民の『表現の自由』に対する不当な侵害」という「表現規制問題」、すなわち国際的な人権問題として論じる必要があると、私は思います。

そもそも、日本政府は何の合理的理由があって従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求しているのでしょうか。ソウルの日本大使館前に従軍慰安婦平和の少女像が設置されていることで、何か後ろめたさを感じているのでしょうか。それとも、ただ単に「不快」なのでしょうか。しかし、そうだとすると「特定の表現を不快だから排除する」というその態度は、まさしく「表現規制反対派」の人がしばしば批判する「表現規制賛成派」の人の態度そのものではないでしょうか。

いずれにせよ、日本政府は従軍慰安婦平和の少女像の撤去を要求するのであれば、韓国市民の「表現の自由」に対する制約を正当たらしめる合理的理由をしっかりと示すべきです(もっとも、そのような合理的理由など何一つないでしょうが……)。しかるに、「10億円を拠出するのだから」などというのが合理的理由たりえないのは、言うまでもないでしょう。