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あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

서대문 형무소――独立と民主の現場

서대문 형무소――独立と民主の現場。

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一人の人間として当然に有する、人間であることを否定する力に対して抵抗する権利を行使したという、ただそれだけの理由でここに収監され、自由を奪われ、さらには命までも奪われた人々――もしかすると彼らは、未来の私たちなのかもしれません。

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私が西大門刑務所歴史館を訪れて思ったのは、もちろん「日本人」として生きることを引き受けた一人の人間として、日本帝国主義による加害の歴史にしっかりと向き合わなければならない、ということもあります。ですが、それだけではなく、「日本人」が真の民主主義精神を獲得するためには、西大門刑務所歴史館のような日本帝国主義による加害の歴史を記録し記憶するための施設が、日本にも(むしろ日本にこそ)必要ではなかったか、ということです。

日本帝国主義は、植民地朝鮮において、人間であることを否定する力に対して抵抗する、多くの朝鮮人の尊厳や生命を奪いました。ですが、同様に、日本において、人間であることを否定する力に対して抵抗する、多くの日本人の尊厳や生命を奪ったということも忘れてはなりません(哲学者の三木清先生や戸坂潤先生が獄死されたのは有名な話です。また、植民地朝鮮のみならず、日本においても、日本帝国主義によって多くの朝鮮人の命が奪われたことを忘れてはならないのは、言うまでもないでしょう。)。すなわち、「日本人」は、日本帝国主義の被害者でもある、といえるのではないでしょうか。

もちろん、「日本人」が日本帝国主義の被害者でもあるからといって、日本帝国主義による加害について直ちに免責されるわけではありません。もっとも、日本では「どうして現在を生きる私たちが、過去の日本帝国主義による加害について責任を負わなければならないのか」という声があるのも事実です。たしかに、時間的にみれば、私たちは戦争を遂行した大日本帝国の構成員ではありません。しかし、国家体制が変わった現在でも、残念ながら未だ国家も社会も日本帝国主義を克服したとは言い難いでしょう。そのような状況において、日本帝国主義を賛美し、日本帝国主義による加害の歴史に腐心することは、過去の日本帝国主義による加害を追認して事後的にせよこれに加担するものだといえます。

そうだとすれば、過去の日本帝国主義による加害に関しては、その歴史と真摯に向き合い、日本帝国主義を克服することこそが、まさしく現在において「日本人」として生きることを引き受けた一人の人間として私たちが果たすべき責任ではないでしょうか。そしてそれは、誰のためでもなく、私たち自身のために必要なことだと思うのです。なぜならそれは、私たちが「国家」などというフィクションによって殺し殺されることなく、一人の自由な人間として生きるために必要なことなのですから。

(敗)戦後日本の「平和主義」は、理念としてはまぎれもなくかけがえのないものです。しかし、結局のところそれは、「過去」を覆い隠すために上塗りしたようなものだったのかもしれません。それゆえ、やはりしっかりと「真の民主主義社会の土台」を作り直したうえで、「平和主義」を再構築する必要があるのではないかと思います。もちろん、それは安倍首相が理想とする「平和主義」とは真逆の方向で……。