葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

本当の意味で「表現の自由」を守るために必要なこと。

創作表現を愛好する私は、もちろんそれに対する不当な制限には反対です。ですが、本当の意味で「表現の自由」を守るためには、はたして規制に反対するだけでよいのでしょうか。

私は別に、「表現規制反対を唱えるだけでは表現の自由は守れない。表現の自由を守ってくださる政治家の先生を支持するのが賢いやり方だ」などと言いたいのではありません(もちろん、政治的な取引もひとつの方法だとは思いますが、しかしそのような方法は取引次第で真逆の結果を招くおそれ、あるいは何か大きな代償を払うおそれが大いにあると思うのです。)。そうではなくて、本当の意味で「表現の自由」を守るために、創作表現を愛好する私たちができる(すべき)ことが、表現規制に反対すること以外にもあるのではないだろうか、と言いたいのです。

思うに、表現の自由が守られるべきであるのは、(“民主主義的価値”の側面に関しては、ここでは割愛するとして)表現活動を通じて個人の人格を発展させるという個人的な価値を守ることが必要だからであり、それは究極的には個人の尊厳を確保するためです。創作表現の自由が守られるべきであるのも、創作表現を通じての自己実現を守ることは、それが個人の尊厳の確保に資するからです。そうだとすれば、(送り手であろうと受け手であろうと)創作表現にかかわる私たちは、本来であれば誰よりも「表現活動の重み」を自覚しているはずです。しかるに、創作表現にかかわる私たちが、民族差別的言動を擁護したり、あるいは自ら民族差別的言動をとったりするなどというのは、前述の創作表現の自由が守られるべき理由に鑑みれば創作表現を踏み躙る重大な裏切り行為だと言っても過言ではありません。

表現の自由の価値を傷つけ踏み躙る「レイシズム」に反対することこそが、私たち創作表現にかかわる者の矜持ではないでしょうか。逆に言えば、「レイシズム」を擁護したりするなどというのは、創作表現にかかわる者としての矜持に悖るといえるでしょう。

そうして、「レイシズム」に反対することこそが、本当の意味で「表現の自由」を守るために、創作表現を愛好する私たちができる(すべき)ことであると私は思うのです。

もっとも、このような私の言説に対しては、まず、「レイシズムに反対しヘイト・スピーチの規制に賛成することは、創作表現の自由の規制を推進するものだ」という批判があるかもしれません。ですが、表現の自由が守られるべき趣旨に鑑みれば、およそ「表現の自由」とはいえないであろう「ヘイト・スピーチを撒き散らす自由」を規制することが、どうして創作表現の自由の規制を推進するものなのでしょうか。ヘイト・スピーチ規制が創作表現の自由の規制を推進するなどという考えは、むしろ創作表現の価値を不当に軽視するものではないでしょうか。それに、ヘイト・スピーチ規制が公権力に濫用される危険は、法文の明確性の問題であって、ヘイト・スピーチを規制することそれ自体の問題ではありません。
つぎに、「レイシズムに反対するのであれば、セクシズムにも反対すべきであって、エロティックな表現は擁護すべきではない」という批判があるかもしれません。もちろん、私も総論として性差別には反対です。しかし、「エロティックな表現は当然にセクシズムである」という言説には到底賛同できません。もちろん、エロティックな表現の中には性差別的な表現も皆無ではないでしょう。しかし、だからといって「エロティックな表現は当然にセクシズムである」というのは、暴論以外のなにものでもありません。また、人間の「生」を描くうえでエロティックな表現は重要であり、そうであればこれを他の創作表現と同様に保障しない理由はありません。さらに、本稿ではその詳細を割愛しますが、レイシズムが許されない理由とエロティシズムが「悪」とされる理由はそれぞれ異なるのであって、それにもかかわらず「レイシズムに反対するのであれば、エロティックな表現は擁護すべきではない」というのは、いささか乱暴な議論のように思います。

とまれ、私たち創作表現愛好者が本当の意味で「表現の自由」を守るためにできる(すべき)ことは、レイシズムを擁護せず拒絶すること、そしてレイシズムを擁護する風潮を拒絶することです。いや、「創作表現愛好者」として、というのはいささか正しくないかもしれません。「創作表現愛好者」として以前に、ひとりの人間として、私たちはレイシズムを擁護せず拒絶し、レイシズムを擁護する風潮を拒絶すべきです。