あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「“リベラル”はレイシズムに対しても寛容であるべきだ」という詭弁

昨今、「“リベラル”はレイシズムに対しても寛容であるべきだ」という言説をしばしば見聞します。

“リベラル”とはいったい何か、についてはいろいろな議論があるでしょうが、ここではとりあえず「自由主義者」と訳すとして、「自由主義」という言葉の語感からすると、そのような言説は一見正論のように思えるかもしれません。しかし、どうも私には、そのような言説は「自由主義」という言葉を表面的にしか捉えていない、別の言い方をすれば「自由主義」の趣旨を理解していない、誤ったものであるように思えてならないのです。

どうやら世間一般では、「“リベラル”(自由主義)とは『寛容』を意味する」と考えられているようです。私は別にそれを否定するつもりはありません。ですが、そこで考えることをやめてしまうのではなく、なぜ“リベラル”とは「寛容の精神」をその趣旨とするものと考えられているのか、あるいは「自由主義」の目的はいったい何であるか、について考えることが必要であると思うのです。

そこで、それらについて私なりに考えてみますが、思うに、「自由」とは読んで字のごとく「『自』分に『由』ること」であることに鑑みると、自由という価値の根源は「自分」すなわち「個人」であるといえます。そうだとすると、「自由主義」(リベラル)が「寛容の精神」をその趣旨とするのは、「差異」を理解し、認め合うことで究極的には「ひと」を(人として、ではなく)「個人」として尊重するためであり、そうして、「自由主義」の目的は、究極的には「個人の尊厳」を確保することである、といえるでしょう。しかるに、「自由主義」がレイシズムといった個人の尊厳を踏みにじるものを容認していると考えるのは、「自由主義」の目的に反するのであって、これはいわば「自由主義の自殺行為」ではないでしょうか。

おそらく「“リベラル”はレイシズムに対しても寛容であるべきだ」と主張する人の多くが、自称“中道派”でしょう。しかし、「“リベラル”はレイシズムに対しても寛容であるべきだ」というのは、私にはどうもレイシズムを正当化するための詭弁としか思えないのです。