葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

ヘイト・スピーチの法規制の是非を考える上での視点についての私見

しばしば、ヘイト・スピーチの法規制に反対する人は、その理由として「ヘイト・スピーチによって未だ具体的な個人の権利侵害が発生したとはいえない」ということを挙げます。

たしかに、民法不法行為といった現行法に関する議論についていえば、まさしくその通りです。また、ヘイト・スピーチによる具体的な個人の権利侵害の有無を問題にすることそれ自体は、立法に関する議論においても基本的には正しいことだと思います。

しかし、残念ながら反対論者は、「ヘイト・スピーチによる具体的な個人の権利侵害」を、「具体的」と言いながら抽象的に捉えるという過ちを犯してしまっているのではないでしょうか。

私が思うに、ヘイト・スピーチの法規制の是非を考える上で問題とすべきなのは、単なる「ヘイト・スピーチによる具体的な個人の権利侵害の有無」ではなく、「ヘイト・スピーチを行なう自由(そのような自由がはたして憲法によって保障される「表現の自由」であるのかはさておき)を制限しても、なお守るべきであるヘイト・スピーチにさらされる個人の権利侵害の有無」です。

たとえ間接的であるにせよ、ヘイト・スピーチによって、ヘイトスピーチにさらされる個人の精神的(時には身体的)損害や社会的評価の低下が生じているのは、紛れもない事実*1です。しかるに、はたして「ヘイト・スピーチを行なう自由」は、そのようなヘイトスピーチにさらされる個人の精神的平穏や尊厳を犠牲にしてまで守るに値するものなのでしょうか。憲法が重要な諸自由を人権として保障した趣旨が、究極的には「個人の尊厳」の確保である点に鑑みても、個人の尊厳を踏み躙るものであるヘイト・スピーチを行う自由が、ヘイトスピーチにさらされる個人の精神的平穏や尊厳を犠牲にしてまで守るに値するものであるとは、私には到底思えません。

このような私の言説に対して、おそらく反対論者は「ヘイト・スピーチは個人を標的とするものではない」と批判するでしょう。たしかに、例えば名誉棄損罪の構成要件について考えるのであれば、その通りだと思います。しかし、反対論者はここでも、ヘイトスピーカーの言う「朝鮮人」を抽象的に捉えるという過ちを犯してしまっています。ヘイト・スピーチによって傷つけられるのは、J-P.サルトル先生の言葉を借りて言えば、「行政法の中にでもあるような、単にその機能によってのみ定義された図形的存在」(J-P.サルトルユダヤ人』)としての「朝鮮人」ではありません。容姿も、性格も、性別も、年齢も、職業もそれぞれ異なる、ひとりの生身の人間である「韓民族」の方なのです。

ヘイト・スピーチの法規制の是非を考えるにあたって、「ヘイト・スピーチによる具体的な個人の権利侵害の有無」を論ずることは「理論的」に正しいですから、それは大変結構なことだと思います。ですが、それを論ずるにあたっては、「『ヘイト・スピーチを行なう自由』は、そのようなヘイトスピーチにさらされる個人の精神的平穏や尊厳を犠牲にしてまで守るに値するものかどうか」という比較考量の視点を持つことも、忘れてはなりません。

 

 

 

 

*1:ヘイトスピーチはそれを受けた人々にいかに恐怖を与え、心の傷を残すのか。人権団体調査報告書を公表 (伊藤和子) - Y!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20141201-00041110/