あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

表現の自由が、本当に「自由」であるために。

日本国憲法
第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

表現の自由」が、憲法によって保障される基本的人権のうちでも、とりわけ重要なものであることは確かです。

しかし、私たちは社会の中で生きているのであり、時として表現行為が他者の名誉やプライバシーといった個人の尊厳に関わる人権を傷つけることもあるでしょう。その場合、表現の自由は、「批判されない権利」などではないことはもちろん、いくら重要だからといって、常に他者の人権に優越されるといったものではありません。

それゆえ、表現の自由が他の人権とぶつかり合うときは、人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理であると解される「公共の福祉」によって、制約される場合もあり得るとされるのです。つまり、いくら表現の自由憲法上人権として保障されるといっても、それが絶対無制限だというわけではありません。どうやら、この点を誤解してる人もいるようですが、「権利として保障されるかどうか」と「(権利として保障されるとしても、その)権利が制約されうるかどうか」は、それぞれ別の問題だということです。

そうはいっても、「公共の福祉」の名の下に行われる制約(もっともこれは、安易な人権制約を許さぬよう、「外からの制約」ではなく、すべての人権に論理必然的に内在するものであると解されています。)は、やはり公権力によってなされるものですから、原則的に避けたいものです。
しかるに、「表現の自由」を他者の尊厳を踏みにじることさえも許される万能の権利か何かであると勘違いをし、臆面もなく他者の名誉やプライバシーといった個人の尊厳に関わる人権を傷つけるような表現行為をするのは、公権力による規制を自招し表現の自由を死に至らしめようとしている、としか私には思えないのです。

思うに、「表現の自由」は、自らの表現行為が他者の人権を踏みにじることのないように、想像力を働かせ、自らの意思でコントロールすることができてはじめて、本当に「自由」であるといえるのではないでしょうか。そうだとすれば、他者の言動や周囲の「状況」に流さるままに、あるいは欲望の赴くままに(これは一見「自由」であるように思われるがちですが)他者の人権を踏みにじるような表現行為をすることが「自由」だなどとは、到底言えないと私は思います。

昨今社会問題となっている、いわゆる「ヘイトスピーチ」に関しても、これを「表現の自由」だなどと言って放任することが、本当に「自由」と言えるかどうかは甚だ疑問に思います。

もっとも、「ヘイトスピーチ」の法規制については、私は諸手をあげて賛成することはできません。なぜならそれは、あらゆる非政治的な表現を規制する理論的な口実を与えかねないのですから。でも、だからこそ、表現の自由を守るためには、私たち一人ひとりが「ヘイトスピーチ」を拒絶しなければならないと思うのです。

表現規制反対派諸姉諸兄の中には、「ヘイトスピーカー」の「ヘイトスピーチの自由」を擁護することもまた「表現の自由」を守るためには必要である、と考えておられる方がいらっしゃるかもしれません。ですが、前述したように、私はそういった考えには到底賛同できません。

本当に「表現の自由」を死に至らしめるのは、「ヘイトスピーチ規制法」よりも「ヘイトスピーカー」である――このことを、私は強く主張したいと思います。