あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「エロティック・オタキズム」と「フェミニズム」は、なぜこうも相容れないのか。

昨今、インターネット上でしばしば「『オタク』vs『フェミニスト』」という対立構図を目にします。しかし、どうも私には、両者の言い分はいずれも、他方に対する偏見や誤解による一方的なもののような気がしてなりません。

そこで、僭越ながら俗流シブタツ主義者を自称するこの私が、「『エロティック・オタキズム』と『フェミニズム』は、なぜこうも相容れないのか」ということについて、私なりに考えてみたいと思います。なお、何を隠そうこの私も「オタク」側の人間でありますゆえ、もしかすると「フェミニスト」諸姉諸兄は、拙稿を不快に感じられるかもしれません。ですが、私としては別に「フェミニズム」を敵視するつもりなどなく、ただ真面目に「エロス」の問題を考えたいだけですので、どうかご容赦ください。

さて、そもそもなぜ、一部の「フェミニスト」諸姉諸兄は、エロティック・オタキズムに対してあんなにも辛辣な態度をとるのでしょうか。この点に関しては、「単に気に入らないから」だと言うオタク諸氏もいるかもしれません。しかし、それはやはり、「フェミニスト」に対する偏見による一方的な意見であるような気がします。

思うに、「フェミニズム」は女性の主体性確立を志向する思想です(これを否定してしまったら、話はそこで終わってしまいます。)。しかし他方、「エロティック・オタキズム」は、「主体的には語り出さない純粋客体」に至上のエロティシズムを見出す思想であるといえます。つまり、「フェミニズム」と「エロティック・オタキズム」は本質的に相反するものであり、したがって両者が相容れないのは、至極当然のことと言えるでしょう。

もっとも、ご存知のようにエロティック・オタキズムに対して辛辣な態度をとる「フェミニスト」諸姉諸兄は、エロティック・オタキズムを「女性を『モノ扱い』するものであって、女性差別である」と非難します。ですが、「客体」であることにエロスを感じるということをもって「女性を『モノ扱い』するものである」とするのは、いささか乱暴な議論であると思います。というのも、いわゆる「他者のまなざし」は、なにも性愛に限った話ではないからです。つまり、性的な「まなざし」で見られることについての「不快感」は、「ガンつけてんじゃねぇよ!」と憤る街のやんちゃ少年が抱く「不快感」と、根本的には同じものだということです。

また、「客体」であることにエロスを感じることが、現実社会における女性差別の根源だというのも、やはりいささか乱暴な論調であると思います。

おそらく、すでにエロティック・オタキズムに対して辛辣な態度をとる「フェミニスト」諸姉諸兄も、女性の性的主体性を奪っているものの正体にうすうす気づいているのでしょう。つまり、性愛関係において女性を客体たらしめているのは、他でもなく「性交」だといえます。だとすれば、性愛関係において真に女性の主体性を確立するには、「性交」を廃絶するしか、もはや道は無いように思えます。しかるに、それをすることなく、「女性の性的主体性が奪われているのはエロティック・オタキズムのせい」だとするのは、問題のすり替えであって、現実から目を背けているだけではないでしょうか。

他方、純粋客体に至上のエロティシズムを見出す思想であるエロティック・オタキズムも、これを現実社会で実現することは著しく困難ないし不可能であるといえます。だからこそ、エロティック・オタキストは「二次元」というユートピアへ逃避するのです。ただ、どうやら昨今のオタク諸氏は、エロティック・オタキズムが現実社会を超越せざるをえないものであること、言い換えれば、現実社会においてエロティック・オタキズムは挫折せざるをえない運命にあることを忘れてしまってるような気がします。

「『オタク』vs『フェミニスト』」という、不毛な対立は、もう終わりにしましょう。「フェミニスト」諸姉諸兄は、ぜひとも性愛関係において女性を客体たらしめる真因である「性交」の廃絶を志向すべきです。そうして、エロティック・オタキストは、ただ「二次元」というユートピアへ逃避するまでです。もしお望みならば、我々は喜んで、マスターベーションしながら死んでいきましょう。

万国の「フェミニスト」よ、「性交」を廃絶せよ!――これが、我々から、親愛なる「フェミニスト」諸姉諸兄へ贈る言葉です。

 

 

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