あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

未来に生きる小毬、過去に生きる理樹。

以下の拙稿は、PCゲーム『リトルバスターズ!』に関する考察です。

 

神北小毬は、未来に生きる人である。

幼い日の小毬にとって、兄である拓也は、かけがえのない存在であった。

それは、小毬自身の実存の証であるといってもいいだろう。

しかし、〈神〉は無慈悲にも「死」によって、拓也というかけがえのない存在を小毬から奪った。

小毬の未来に、拓也はいない。

それでも小毬は、未来を生きなければならない。

そこで〈神〉は、「忘れる」という、生きるための術を小毬に与えた。

そうして小毬は、拓也のいない未来を生きるために、拓也がいたという過去を忘れた。

だが、過去を忘れた未来など、不安でしかない。というのも、私が私であり、そしてこれからも私であるのは、これまで私が私であり続けてきたものがあるからだ。

だとすれば、小毬が拓也を忘れるということ――それは、小毬が小毬であったという、それさえも忘れてしまうということである、そう言えるのではないだろうか。

そうして考えてみると、作中で小毬を苦しめた「病」とは、つまるところ「実存の不安」だったといえるかもしれない。すなわち、

「にわとりさんはひよこさんのことを忘れちゃうし、ひよこさんはたまごのことを忘れちゃう」――小毬は小毬のことを忘れ、小毬は小毬のことを忘れてしまう。でも、何のために?それは、小毬が、悲しい過去を忘れることで、幸せな未来を生きるために。だが、幸せな未来を生きるはずの「小毬」は、いったい何者なのか。それは、何者かであるのかもしれないし、何者でもないのかもしれない。そして、何者でもない不安――究極的にそれは、「死の不安」である。猫の死を見たことが引き金となって、小毬が「病」を発症したというのも、作中で小毬を苦しめた「病」が「実存の不安(≒死の不安)」であることを、暗に示しているといえる。

 

小毬が未来に生きる人であるとすれば、直枝理樹は、過去に生きる人である。

幼い日の理樹にとって、両親は、かけがえのない存在であった。

それは、理樹自身の実存の証であるといってもいいだろう。

しかし、〈神〉は無慈悲にも「死」によって、両親というかけがえのない存在を理樹から奪った。

理樹に生じた、空白。

そんな理樹の空白を埋めたのが、「リトルバスターズ!」だった。

そうして、「リトルバスターズ!」の仲間たちと過ごすことで、理樹は理樹であることができた。「リトルバスターズ!」という一なるものによって、理樹は理樹という一つの存在であることができた。

だが、「人」が「人間」であろうとすれば、否応なしに「社会」へ投げ込まれる。それは、理樹も、恭介も、鈴も、真人も、謙吾も、例外ではなかった。現代の社会を生み出す原動力である、分離するロゴスの力は、彼らをバラバラに引き裂く。そうして、「リトルバスターズ!」という一なるものが失われ、理樹は理樹という一つの存在であることができなくなる。まぎれもなく、1個の存在であるにもかかわらず。

そんな理樹に、慈悲深い〈神〉は、理樹が理樹であることを回復するためのチャンスを与えた。それは、幼い日の幸せだった「リトルバスターズ」を繰り返しやり直す(もっとも、それは「繰り返す」ように見えて、本当は〈神〉によって「繰り返される」ものに過ぎない)ことであった。だが、〈神〉はここで過ちを犯した。理樹ではない「理樹」が、幼い日の幸せだった「リトルバスターズ!」を繰り返しやり直したところで、どうして理樹が理樹であることを回復することができようか。幼い日の幸せだった「リトルバスターズ!」をどれだけ繰り返しやり直したところで、理樹ではない「理樹」にとっては、取り返しのつかない「後の祭り」でしかない。理樹ではない「理樹」が、いくら理樹が過ごした幼い日の幸せだった「リトルバスターズ!」を繰り返しやり直したところで、それは決して「理樹」のものにはならないのだから。

〈神〉は過ちを犯した。理樹が理樹であるために必要なのは、幼い日の幸せだった「リトルバスターズ!」を繰り返しやり直すことではなかった。「祭りの後」を生きる理樹が、〈いま〉を生きるために必要なのは、「祝祭」――それは、分離するロゴスの力に対抗する、エロスの力を原動力として生み出される――だった。そうして、「リトルバスターズ!」という「祝祭」によって、理樹は理樹であること――「リトルバスターズ!」という一なるものによって、理樹は理樹という一つの存在であること――を回復する。

リトルバスターズ!」という「祝祭」は、「祭りの前」を生きる小毬が<いま>を生きるためにも必要である。

つまり、未来に生きる小毬も、過去に生きる理樹も、自分が自分であることを回復するには、〈いま、ここにある世界〉と〈交わる〉ことが必要なのである。そうして、〈いま、ここにある世界〉と〈交わる〉媒介が、まさに「リトルバスターズ!」という「祝祭」なのである。

 

「恭介が帰ってきたぞーー!!」

寮内に響き渡るその声は、まるで祭りの始まりを告げる鐘の音。

そう、日常を非日常へと変える、不連続存在である僕たちがひとつになる、「リトルバスターズ!」という「祝祭」が始まるんだ。

大切な友が、僕の手を取る。

「行くぞ理樹!祭りが始まる」

 

リトルバスターズ! 通常版

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