葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

児童ポルノ禁止法の、根本的な問題について。

児童ポルノの単純所持罰則化に関して、これを性的表現の自由に対する重大な脅威であると感じている人は、少なくはないと思います。

しかし、他方で「そもそも単純所持の罰則化以前から児童ポルノそのものは違法であるから、単純所持が罰則化されたからといって、ことさらに性的表現の自由が抑圧されるわけではないのでは」と考える人もいるのではないかと思います。

私が思うに、単純所持の罰則化により公権力により取締りがしやすくなった点を考えると、単純所持の罰則化が性的表現の自由に与える影響は皆無ではないでしょう。ですが、単純所持の罰則化をやめれば性的表現の自由に対する脅威が除かれるかといえば、必ずしもそうではない点を考えると、児童ポルノ禁止法の根本的な問題は、どうやら単純所持の禁止ではないような気がします。

では、児童ポルノ禁止法の根本的な問題は何か。それはやはり、禁止される「児童ポルノ」の定義、とりわけいわゆる「3号ポルノ」の定義が不明確である点であると私は思います。そもそも、単純所持が性的表現の受け手の自由にとって重大な脅威であるのも、所持が禁止される「児童ポルノ」が何であるかが不明確であるゆえ、はたして自分の所持し(ようとし)ている表現物が、禁止される「児童ポルノ」であるか判断することが困難だからではないでしょうか。

もっとも、「警察も決して暇ではないから、明確に『児童ポルノ』であるかどうか分からないものまで取り締まることはしないだろう」と楽観的に考える人もいるかもしれません。ですが、処罰されるおそれが皆無とはいえない以上、処罰を恐れて表現の送り手は表現することを控え、受け手は表現物を手にすることを控えてしまうでしょう。たとえそれが、「神の目」から見たら適法な表現であったとしても。

もうお気づきかもしれませんが、これこそがまさに公権力の思う壺なのかもしれません。たしかに、警察は決して暇ではないのでしょうから、わざわざ苦労して取り締まらなくても、表現者が罰則を恐れて表現を控えてくれるのであれば、公権力にとってこれほど楽なことはないでしょう。取り締まるとしても、市民が恐れを忘れた頃に目立つ輩を、見せしめとして処罰すれば良いのですから。

もしかすると、こんなことを言う私を、「そもそも警察に疑われるようなことをしなければ良いのではないか」と批判する人もいるかもしれません。ですが、どうして警察の目を気にして、「神の目」から見たら適法である表現さえも控えなければならないのでしょう。

どうも昨今は、性的表現の自由の問題に限らず、「国家や社会の利益や安全のためなら、個人の自由が犠牲にされるのもやむを得ないと考えるのが大人である」とする風潮が蔓延しているような気がします。

私も別に、「公共の福祉」のために、つまりは人権相互の矛盾衝突を調整するために個人の自由が制約されることは否定しません。しかし、「国家や社会の利益や安全のために必要である」からといって公権力の好き勝手にさせておいたら、気がつくと個人の自由が何もかも無くなっていた、なんてことにもなりかねないのです。それとも、私たちこの国に暮らす人々は、自由であることが原則であることを捨てて、自由でないことが原則であることを望むのでしょうか。

とまれ、やはり児童ポルノ禁止法に関しては、いわゆる「3号ポルノ」の法文の明確化を図るか、さもなくば「3号ポルノ」規定を廃止すべきであると、私は考えるのです。「3号ポルノ」の定義が不明確であることは、本来的に保障されるべき「個人の自由」に対する重大な弊害を考えれば、いくら児童ポルノを禁圧する必要があるとしても不合理であることは明白なのですから。