あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

「ろくでなし子さんは、道徳的な人です」

「ろくでなし子さんは、道徳的な人です」――こんなことを言えば、道徳家を自認する諸姉諸兄から、「猥褻物を頒布するような人が道徳的であるものか!」とお叱りを受けてしまうかもしれません。

たしかに、性器を模ったオブジェを公然と陳列したり、性器の3Dデータを頒布するといった行為は、「卑猥で反道徳的である」というのが世間一般の認識でしょう。ですが、私にはどうしてもろくでなし子氏が道徳的な人に思えてならないのです。

ろくでなし子氏の主張は、大雑把に言えば「性表現の開放(解放)」です。このような主張は、道徳家の諸姉諸兄からすれば「健全な性道徳を乱す」もの以外の何ものでもないかもしれません。ですが、はたして本当に、ろくでなし子氏の主張は「反道徳」なのでしょうか。

ろくでなし子氏は、「女性器から卑猥なイメージを払拭したい」と言います。このような言動から推察するに、ろくでなし子氏は、性的な表現を社会の道徳的秩序の中に組み込もうと試みているのではないか、私はそう思うのです。そして、それゆえに、私にはどうしてもろくでなし子氏が道徳的な人に思えてならないのです。

かねてよりエロティシズムの擁護者を自認している私は、そのようなろくでなし子氏の試みには、とうてい賛同することはできません。誤解の無いようお断りしておきますが、私は別に性表現が公権力によって規制されることに賛同するわけではありません。私が言いたいのは、エロティシズムが道徳と手を結ぶことなどありえない、ということです。

どうやら、エロティシズムに関しては、エロティシズムは性の完全な開放を志向するものであるという誤解があるような気がします。

私が思うに、エロティシズムは、決して性の完全な開放を志向するものでありません。というのも、もしもタブーがなければ、エロティシズムは到底存在しえないからである。

私に言わせれば、「裸体主義」はエロティシズムの思想などでは決してありません。もしも人間が衣服を着ていなかったとしたら、はたして裸体はこれほどまでにエロティックでありえたでしょうか。「裸体を公然と露出してはいけない」という禁忌があるからこそ、裸体はこれほどまでにエロティックたりうるのではありますまいか。

もっとも、性の開放を志向することは一見健全な性道徳を乱すものであって、反道徳的であるように思えるかもしれません。しかし、人間が人間として生きていくには、好むと好まざるとにかかわらず社会と関係せざるをえないのであって、それゆえに性の開放を叫ぶのであれば、どうしても性の開放の思想を社会の道徳的秩序の中に組み込もうとするよりほかはないのです。

結局、エロティシズムとは何かと言えば、それは文明という抑圧に抵抗する暴力であり、道徳の名で弾劾すればするほど聖なる輝きを放つ、悪魔的な力への意志である、と言えるかもしれません。だから、文明に抑圧されないエロティシズム、道徳の名で弾劾されないエロティシズムなど、そもそも存在しないのです。

 

エロス的人間 (中公文庫)

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