あしべの自由帳

こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく。主にラブとピースとエロスにまつわるetc.について考えています。

差別語の差別性、あるいは猥褻物の猥褻性について

差別的言動をした人が、「その言葉は、本来は差別語ではない」といった言い訳をするのを、しばしば見聞することがあります。

たしかに、言葉そのものが本来的に差別性を持たないというのは、間違いではないかもしれません。

ですが、そのことは決して、差別的言動をしたことの免罪符とはならないでしょう。

これについては、澁澤龍彦氏による<エロティック>と「猥褻」という言葉についての考察が、大いに参考になると思います。

澁澤龍彦氏は、ロベール・デスノスの言説を引用し、「『自由な言語表現において、貶下的な意味を本質的に含んでいる言葉というのは、そもそもどんな言葉だろうか。貶下的な意味は言葉自体のものではなく、明らかに作家のものであり、読者のものであり、あるいは駄弁家のものであろう』と。言葉の意味はもともと相対的なものであり、ただこれを用いる人間主体の側において、貶下的になったり称揚的になったりするという性質のものだ。」と述べています(澁澤龍彦『エロス的人間』中公文庫)。

つまり、「猥褻」という言葉も、これを用いる人間が貶下的な意味を含ませるからこそ、悪い意味を持つものになる、ということです。

かつて澁澤龍彦氏は言いました。「はたして猥褻なものというのが存在するのかどうか――私はそんなもの、どこにも存在しないと考えます。……当人がちっとも恥ずかしいとも猥褻だとも思っていないものを見る人が恣意的に、猥褻だと判断する、そういう恣意的な判断をくだすひとの心の中にしか、猥褻というものは存在しないのです。」

同様に、差別語も、差別的な意味は言葉自体のものではなく、これを用いる人間の意識によるものなのではありますまいか。だから、ある言葉がたとえ本来は差別語ではなかろうと、その言葉を差別的な意識で、あるいは差別的な文脈で用いるのであれば、差別的言動であるとの誹りを免れない、そう思うのです。