葦辺の車家ブログ

自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない車家(くるまや)ゆきとが感じたこと・考えたことをそこはかとなく書き綴ります。

憲法21条を護るだけでは、表現の自由を護ることはできないのかもしれない。

いま、表現の自由にとって最も憂慮すべきなのは、表現者に対する警察の不当逮捕かもしれない――こんなことを言えば、「罪を犯したのだから逮捕されて当然だ」と反論されるかもしれません。

しかし、そもそも「罪を犯したのだから逮捕されて当然だ」というのは、よくある誤解なのです。というのも、逮捕とは、罪を犯したことに対する刑罰などではなく、捜査手続のひとつにすぎないのです。また、「罪を犯した」から逮捕されるのではなく、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由がある」から逮捕される*1のです。

では、「罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があ」れば必ず逮捕されるのかといえば、これもまたよくある誤解なのですが、罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があったとしても、明らかに逮捕の必要がない場合*2であれば、逮捕することはできません。

しかるに、昨今の警察による性的表現の取り締まりをみると、捜査のためという本来の手段ではなく、警察が気に食わない性的表現を行う者を懲らしめることで性風俗を維持するための手段として、逮捕を利用しているのではないだろうか、そう思えてならないのです。某事件に関する、「性風紀の維持のため、これ以上はダメだという一定の線引きは必要だ……粛々と逮捕した。今後も適正に取り締まっていく」という警視庁幹部のコメントからも、警察が逮捕を性風紀の維持のための懲罰の手段として用いようとする意図を窺い知ることができるような気がします。

本来、性的表現が法令に違反し犯罪になるかどうかは、公正な裁判において判断されるべき事柄であるといえます。性的表現が「わいせつ」かどうかも、警察が一方的に決めるべき事柄ではありません。

逮捕は捜査手続のひとつにすぎませんが、一般市民にとっては、たとえ短期間であったとしても監獄に入れられて自由を奪われることは、刑務所で服役することと大して変わらない恐ろしいものです。そうだとすると、もしも警察が逮捕を性風紀の維持のための懲罰の手段として用いることを許すとすれば、監獄に入れられて自由を奪われることを恐れる市民は、たとえ公平な裁判で犯罪ではないと判断されるかもしれない表現であったとしても、警察が気に食わないであろう表現であれば、その表現活動を差し控えてしまうでしょう。

そうして、公権力は「公正な裁判」などという面倒な手続きを経ることなく、公権力が理想とする性風俗の維持を実現することができるでしょう。

それでも、「社会正義のために警察が活動して何が悪い。そもそも警察に犯罪者と疑われるようなことをする人間が悪いんだ」と言う人もいるかもしれません。ですが、はたして警察が正義であることの保証は誰がしてくれるのでしょうか。べつに私は、警察が悪であると言いたいわけではありません。警察の活動は、「法の適正な手続」に則って行われてはじめて、「社会正義の実現」のためであると言えるのではないか、そう思うのです。

表現の自由の保障というと、私たちは憲法21条を思い浮かべるでしょう。しかし、公権力の恣意的な運用によって簡単に個人の表現の自由が踏みにじられてしまっては、表現の自由の保障はともすれば「絵に描いた餅」になってしまうかもしれません。それゆえ、表現の自由を護るためには、公権力を手続的に拘束することにより人権を保障していこうとの思想に基づくものであるとされる、憲法31条を護ることも、私たちは意識する必要があるのではないでしょうか。

 

*1:刑事訴訟法199条1項:検察官、検察事務官又は司法警察職員は、被疑者が罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるときは、裁判官のあらかじめ発する逮捕状により、これを逮捕することができる。

*2:刑事訴訟規則第143条の3(明らかに逮捕の必要がない場合):逮捕状の請求を受けた裁判官は、逮捕の理由があると認める場合においても、被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び態様その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、 かつ、罪証を隠滅する虞がない等明らかに逮捕の必要がないと認めるときは、逮捕状の請求を却下しなければならない。